ロリアン周辺の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/08 06:54 UTC 版)
17世紀の終わりまでに、ブルターニュ海岸には新しい要塞が築かれたが、ロリアン周辺の守備はまだまだ貧弱のままであった。ロリアン停泊地(フランス語版)の出口にあるポール=ルイ城(英語版)は近代化されておらず、ロリアンの後ろを守るのは低い塁壁(フランス語版)のみであり、海岸でもほかの防御工事がなかった。 ロリアンは貿易港となり、戦略的にも要地となった。フランス海軍とフランス東インド会社のためのロリアン工廠(フランス語版)が建設され、特に東インド会社は1732年にその基地をナントからロリアンに移した。ブレスト、ナント、ボルドーの間のカボタージュ中心地にもなっていた。ロリアンの南東にあるベル=イルは東インドから戻り、ロリアンへ向かう途中の船のシェルターになっていた。近くのウア島(英語版)とオエディック島(英語版)は17世紀末に本土上陸を防ぐべく要塞化された。 1620年代以降、ロリアン周辺では聖母マリア信仰が発展しており、オーレー近くでの聖アンナの御出現との記録もある。以前のイギリスからの襲撃のときでも彼女に関する奇跡の記述があり、その背景にはプロテスタントのイギリス軍とカトリックのブルトン人の間の戦闘であったことが影響を与えている。
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