イギリス軍の到着
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「サリバン島の戦い」の記事における「イギリス軍の到着」の解説
イギリス艦隊は5月31日にケープフェアを出航し、翌日にはチャールストン港外に到着した。ムールトリーはサリバン島から数百ヤード離れたロング島でイギリス軍の偵察船が上陸可能な地点を探っていることに気付いた。その後サリバン島北端を守るために部隊が派遣された。6月8日までにイギリス艦隊の大半の艦船が砂州を通過し、砂州と港口の間の碇泊所であるファイブファソムホールに碇を下ろした。サリバン島の砦が半分しか完成されていないのを見たパーカー提督は、その戦艦の大砲で砦の壁を打ち破れるという自信を表明した。パーカーはクリントンの陸軍すら必要としないと楽観的に考え、クリントンには砦の大砲を破壊した後に、大砲の援護下に(そのために訓練してきた)水兵と海兵を上陸」させるので、「貴方が適切と考えるだけの部隊を送ってくれるまで砦を占領」しておくことができると伝言を送った。 イギリス艦隊は9艦のマン・オブ・ウォーで構成されていた。旗艦は大砲50門搭載のHMSブリストル、その他50門搭載のHMSエクスペリメントとフリゲート艦のHMSアクテオン、HMSアクティブ、HMSソールベイ、HMSサイレーン、HMSスフィンクス、HMSフレンドシップおよび砲艦のHMSサンダーであり、搭載大砲の総数は300門近かった。この遠征に従軍した陸軍は第15、第28、第33、第37、第54、第57の歩兵連隊と第46歩兵連隊の一部だった。6月7日、クリントンは反乱を起こした植民地人に武器を収めるよう呼びかける宣言を発した。しかし、経験を積んでいない防御部隊が(休戦の旗を翻して)その宣言書を運んでいた船に発砲したので、それは翌日まで届けられなかった。これと同じ日にクリントンはロング島に2,000名の部隊の上陸を始めさせた。その意図は、ロング島とサリバン島の間の海峡が徒歩で渉れるだけ浅いものと考えていたので、これらの部隊がそこを渉り、一方で艦隊がサリバン島に砲撃を続けるというものだった。 リー将軍はイギリス軍の上陸に対して幾つかの行動で反応した。まずイギリス軍がチャールストンに直接攻撃を掛けることを意図した場合に備えて、本土の陣地を強化することを始めた。またサリバン砦の守備隊が退却する場合に備えて舟橋を作ろうとしたが、島とチャールストン市を隔てる幅1マイル (1.6 km) の海峡を渡せるだけの橋を構成する船を確保できなかったので失敗した。ムールトリーとラトリッジがその動きを支持していなかったことも失敗の要因であった可能性がある。アメリカ側はサリバン島の北端に塹壕を掘り、ここに750名以上の兵士と3門の大砲を配備した。またサリバン砦から対岸の本土側にあるハドレルズポイントにあった監視所の強化を始めた。 クリントン将軍は6月17日に攻撃にあたっての最初の大きな問題に直面した。2つの島の間の海峡を渉ることとしていたが、海峡の一部は少なくとも兵士の肩の高さまで水深があり、敵兵が居ないとしてもそこを渉るのは困難だった。ボートを使って部隊を渡すことも考えたが、アメリカ側はリー将軍からの適切な助言に従って強固な防御陣地を拵えたので、艦船やロング島からの砲撃も事実上不可能だった。その結果、イギリス軍とアメリカ軍が海峡を挟んで対峙し、長射程でほとんど効果の無い砲撃を時たま交わすだけだった。クリントンはこのことで、パーカー提督が「単独で敗北を喫する名誉」を受けることになると報告した。攻撃開始は当初6月24日に計画されていたが、天候と逆風という条件のために、パーカーは数日間延期すると宣言した。
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イギリス軍の到着
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「ロングアイランドの戦い」の記事における「イギリス軍の到着」の解説
6月28日、ワシントンはイギリス艦隊が6月9日にハリファックスを出港してニューヨーク市に向ったことを知った。翌29日、スタテン島に駐屯していた兵士からイギリス艦隊が現れたという信号が送られてきた。それから数時間後には45隻のイギリス艦船がニューヨーク湾に碇を下ろした。さらに1週間足らず後には、ハウ将軍の兄、リチャード・ハウ提督が指揮する130隻の艦船がスタテン島沖にいた。ニューヨーク市民はイギリスの艦船を目撃して恐慌に陥り、警報が放たれ、兵士達は即座にその持ち場に殺到した。7月2日、イギリス軍がスタテン島への上陸を始めた。この島に駐屯していた大陸軍の正規兵はイギリス軍に対して数発発砲しただけで逃亡し、イギリス軍側に寝返る民兵もいた。 7月6日、大陸会議が4日前に独立決議案を採択したという報せがニューヨーク市に届いた。7月9日木曜日夕方の6時、ワシントンは数個旅団を市の会議場に向かわせ、アメリカ独立宣言を読み聞かせた。この朗読が終わった時、群衆がボウリング・グリーンに殺到し、ロープと棒を使ってイギリス国王ジョージ3世の鉛製金メッキの騎馬像を引き倒した。群衆は怒りに駆られて彫像の頭を切り落とし、鼻を削ぎ、酒場の外の釘に頭部を引っ掛け、彫像の他の部分はコネチカットまで引き摺っていってマスケット銃の銃弾に鋳直された。 7月12日、2隻のイギリス艦船、フェニックスとローズが港からハドソン川河口に向った。ジョージ砦、レッドフックおよびガバナーズ島に置かれていたアメリカ軍の砲台から発砲があり、イギリス艦船も市内に向って応戦した。これら艦船はニュージャージーの海岸に沿って航行を続けてハドソン川に入り、ワシントン砦の下を抜けて夕闇が訪れるまでにハドソン川で最も広い部分であるタリータウンに到着した。イギリス艦船の目的はアメリカ側の補給線を絶ち、ロイヤリストの支援を奨励することだった。この日の損失はアメリカ側が自軍の大砲が暴発したときに6人の兵士が殺されただけだった。 翌13日、ハウ将軍はアメリカ側との交渉を開始しようとした。ハウはフィリップ・ブラウン中尉に休戦の旗を持たせワシントン宛ての手紙を持参させた。この手紙のあて先は「ジョージ・ワシントン殿」とされていた。ブラウンはジョセフ・リードと会った。リードはワシントンの命令でヘンリー・ノックスとサミュエル・ウェブと共に水際に急行していた。ワシントンは士官達にその手紙を受け取るべきかを尋ねた。手紙はワシントンの位階を将軍として認めてはいなかった。士官達は異口同音に否と答えた。リードはブラウンにこのあて先の者は自軍の中にいないと回答した。7月16日、ハウは再び同じ事を試みた。この時の宛名は「ジョージ・ワシントン殿、等々、等々」とされていたが、これも再度拒絶された。翌日ハウはニスベット・バルフォア大尉を送り、ワシントンがハウの副官と対面で会うつもりがあるかを尋ねさせた。その会見は7月20日に行うこととされた。ハウの副官はジェイムズ・パターソン大佐だった。パターソンはワシントンに向って、ハウが恩赦を認める権限を与えられていると伝えたが、ワシントンは「何の咎も無いものは恩赦を望まない」と回答した。パターソンはその後直ぐに帰還した。この会見の時のワシントンの態度はアメリカ合衆国中で賞賛された。 一方、イギリスの艦船は続々と到着し続けていた。8月1日、45隻の艦船が到着し、ヘンリー・クリントン、チャールズ・コーンウォリス各将軍と3,000名の兵士が加わった。8月12日までに、さらに3,000名のイギリス兵とヘッセン=カッセルから8,000名のドイツ人傭兵部隊が到着した。この時点でイギリス艦隊は73隻の戦闘艦を含む総数400隻以上となっており、スタテン島には32,000名の軍隊が宿営していた。ワシントンはこの大軍に直面して、イギリス軍がどこから攻撃してくるのかはっきり掴めなかった。グリーンとリードはイギリス軍がロングアイランドを攻めてくると考えたが、ワシントンはロングアイランドを攻撃するとしてもそれは陽動行動であり、主目標はマンハッタン島になると考えた。ワシントンはその軍隊を2つに割り、半分をマンハッタン島に、半分をロングアイランドに置かせた。ロングアイランドの部隊はグリーンに指揮を任せた。8月20日、グリーンが病気になり、マンハッタン島にある家に移動して快復に努めることになった。グリーンが快復して指揮を執れるようになるまで、ジョン・サリバンが指揮官になった。
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