イギリス軍の到着とは? わかりやすく解説

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イギリス軍の到着

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/01 02:41 UTC 版)

サリバン島の戦い」の記事における「イギリス軍の到着」の解説

イギリス艦隊5月31日にケープフェアを出航し翌日にはチャールストン港外到着した。ムールトリーはサリバン島から数百ヤード離れたロング島イギリス軍偵察船が上陸可能な地点探っていることに気付いたその後サリバン北端を守るために部隊派遣された。6月8日までにイギリス艦隊大半艦船砂州通過し砂州港口の間の碇泊所であるファイブファソムホールに碇を下ろしたサリバン島の砦が半分しか完成されていないのを見たパーカー提督は、その戦艦大砲で砦の壁を打ち破れるという自信表明したパーカークリントン陸軍すら必要としない楽観的に考えクリントンには砦の大砲破壊した後に、大砲援護下に(そのために訓練してきた)水兵海兵上陸」させるので、「貴方が適切と考えるだけの部隊送ってくれるまで砦を占領」しておくことができると伝言送ったイギリス艦隊は9艦のマン・オブ・ウォーで構成されていた。旗艦大砲50搭載HMSブリストル、その他50搭載HMSエクスペリメントフリゲート艦HMSアクテオン、HMSアクティブHMSソールベイ、HMSサイレーンHMSスフィンクスHMSフレンドシップおよび砲艦HMSサンダーであり、搭載大砲総数300近かった。この遠征従軍した陸軍は第15、第28、第33、第37、第54、第57歩兵連隊と第46歩兵連隊一部だった。6月7日クリントン反乱起こした植民地人に武器収めるよう呼びかける宣言発した。しかし、経験積んでいない防御部隊が(休戦の旗を翻して)その宣言書運んでいた船に発砲したので、それは翌日まで届けられなかった。これと同じ日にクリントンロング島に2,000名の部隊の上陸を始めさせた。その意図は、ロング島サリバン島の間の海峡徒歩で渉れるだけ浅いものと考えていたので、これらの部隊がそこを渉り、一方で艦隊サリバン島に砲撃続けるというものだったリー将軍イギリス軍の上陸に対して幾つかの行動反応した。まずイギリス軍チャールストン直接攻撃掛けることを意図した場合備えて本土陣地強化することを始めた。またサリバン砦の守備隊退却する場合備えて舟橋作ろうとしたが、島とチャールストン市を隔てる幅1マイル (1.6 km) の海峡渡せるだけの構成する船を確保できなかったので失敗した。ムールトリーとラトリッジがその動き支持していなかったことも失敗の要因であった可能性がある。アメリカ側サリバン島の北端塹壕掘り、ここに750名以上の兵士と3門の大砲配備した。またサリバン砦から対岸本土側にあるハドレルズポイントにあった監視所の強化始めたクリントン将軍6月17日攻撃にあたって最初大きな問題直面した2つの島の間の海峡渉ることとしていたが、海峡一部少なくとも兵士の肩の高さまで水深があり、敵兵居ないとしてもそこを渉るのは困難だったボート使って部隊を渡すことも考えたが、アメリカ側リー将軍からの適切な助言に従って強固な防御陣地拵えたので、艦船ロング島からの砲撃事実上不可能だったその結果イギリス軍アメリカ軍海峡挟んで対峙し、長射程でほとんど効果の無い砲撃時たま交わすだけだったクリントンはこのことで、パーカー提督が「単独敗北喫する名誉」を受けることになると報告した攻撃開始当初6月24日計画されていたが、天候逆風という条件のために、パーカー数日間延期する宣言した

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イギリス軍の到着

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/12 14:42 UTC 版)

ロングアイランドの戦い」の記事における「イギリス軍の到着」の解説

6月28日ワシントンイギリス艦隊6月9日ハリファックス出港してニューヨーク市に向ったことを知った。翌29日、スタテン島に駐屯していた兵士からイギリス艦隊現れたという信号送られてきた。それから数時間後には45隻のイギリス艦船ニューヨーク湾に碇を下ろした。さらに1週間足らず後には、ハウ将軍の兄、リチャード・ハウ提督指揮する130隻の艦船がスタテン島沖にいた。ニューヨーク市民はイギリス艦船目撃して恐慌に陥り、警報放たれ兵士達即座にその持ち場殺到した7月2日イギリス軍がスタテン島への上陸を始めた。この島に駐屯していた大陸軍正規兵はイギリス軍に対して発発砲しただけで逃亡しイギリス軍側に寝返る民兵もいた。 7月6日大陸会議4日前に独立決議案採択したという報せニューヨーク市届いた7月9日木曜日夕方6時ワシントン数個旅団を市の会議場に向かわせ、アメリカ独立宣言読み聞かせた。この朗読終わった時、群衆がボウリング・グリーンに殺到しロープと棒を使ってイギリス国王ジョージ3世の鉛製金メッキ騎馬像引き倒した群衆怒り駆られて彫像の頭を切り落とし、鼻を削ぎ酒場の外の釘に頭部引っ掛け彫像の他の部分コネチカットまで引き摺っていってマスケット銃銃弾に鋳直された。 7月12日、2隻のイギリス艦船フェニックスローズが港からハドソン川河口に向った。ジョージ砦、レッドフックおよびガバナーズ島置かれていたアメリカ軍砲台から発砲があり、イギリス艦船市内に向って応戦した。これら艦船ニュージャージー海岸沿って航行続けてハドソン川入りワシントン砦の下を抜けて夕闇訪れるまでにハドソン川で最も広い部分であるタリータウン到着したイギリス艦船目的アメリカ側補給線絶ちロイヤリスト支援奨励することだった。この日の損失アメリカ側自軍大砲暴発したときに6人の兵士殺されただけだった。 翌13日ハウ将軍アメリカ側との交渉開始しようとした。ハウはフィリップ・ブラウン中尉休戦の旗を持たせワシントン宛ての手紙を持参させた。この手紙のあて先は「ジョージ・ワシントン殿」とされていた。ブラウンジョセフ・リード会ったリードワシントン命令ヘンリー・ノックスとサミュエル・ウェブと共に水際急行していた。ワシントン士官達にその手紙を受け取るべきかを尋ねた手紙ワシントン位階将軍として認めてはいなかった。士官達は異口同音に否と答えたリードブラウンにこのあて先の者は自軍中にいないと回答した7月16日ハウは再び同じ事を試みた。この時の宛名は「ジョージ・ワシントン殿、等々等々」とされていたが、これも再度拒絶された。翌日ハウはニスベット・バルフォア大尉送りワシントンハウ副官対面で会うつもりがあるかを尋ねさせた。その会見7月20日に行うこととされた。ハウ副官はジェイムズ・パターソン大佐だった。パターソンワシントンに向って、ハウ恩赦認め権限与えられていると伝えたが、ワシントンは「何の咎も無いものは恩赦望まない」と回答したパターソンその後直ぐに帰還した。この会見時のワシントン態度アメリカ合衆国中で賞賛された。 一方イギリス艦船続々到着し続けていた。8月1日45隻の艦船到着しヘンリー・クリントンチャールズ・コーンウォリス将軍と3,000名の兵士加わった8月12日までに、さらに3,000名のイギリス兵とヘッセン=カッセルから8,000名のドイツ人傭兵部隊到着した。この時点イギリス艦隊73隻の戦闘艦を含む総数400隻以上となっており、スタテン島には32,000名の軍隊宿営していた。ワシントンはこの大軍直面してイギリス軍がどこから攻撃してくるのかはっきり掴めなかった。グリーンリードイギリス軍ロングアイランド攻めてくると考えたが、ワシントンロングアイランド攻撃するとしてもそれは陽動行動であり、主目標マンハッタン島になると考えたワシントンはその軍隊2つ割り半分マンハッタン島に、半分ロングアイランドに置かせた。ロングアイランド部隊グリーン指揮任せた8月20日グリーン病気になり、マンハッタン島にある家に移動して快復努めることになったグリーン快復して指揮を執れるようになるまで、ジョン・サリバン指揮官になった

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