イギリスの作戦
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「フロンテナック砦の戦い」の記事における「イギリスの作戦」の解説
1758年のイギリス軍の軍事作戦には、3つの主な目的があった。うち1つの目的である、ルイブール砦の攻略は成功していた。デュケーヌ砦は、11月末に、イギリス軍が結果として占領することができた。もう1つは、7月8日に行われたカリヨンの戦いであったが、この戦いでは、将軍ジェームズ・アバークロンビー指揮下の1万6千の兵を含む遠征隊が、カリヨン砦(現在のタイコンデロガ砦)の攻略を目論んだものの、人数ではるかに劣るフランス軍に完敗した。この敗北を受けて、アバークロンビーの「手下」たちは、責任逃れの道を模索した。 イギリス軍中佐ジョン・ブラッドストリートは、フロンテナック砦の攻略を早めに行うよう何度も要請した。この砦は、フランスの交易所であり、オンタリオ湖の北岸にあって、湖水がセントローレンス川に注ぎ込む場所にあった。アバークロンビーは真っ先にその提案に反対した、カリヨンの攻撃に戦力が必要だからというのがその理由であったが、ブラッドストリートの、モホーク川を上ってオスウィーゴ砦に行き、しかる後にオンタリオ湖を渡って、フロンテナック砦を襲撃する方法には賛成した。 ブラッドストリートは、スケネクタディで兵を集め、わずか135人の正規兵と、ニューヨーク、マサチューセッツ湾、ニュージャージー、ロードアイランドの各植民地の3,500人の民兵とで軍を構成した。8月21日にオスウィーゴの砦跡に着くまでに、600人の兵が脱走した。この道は、フランス軍やインディアン同盟軍の襲撃を受ける可能性は低かったが、2年間ほど実質的に使われていない道で、樹木が生い茂り、水路は一部が沈泥でふさがっていて、荷物を積んだバトーが、川底が浅いため地面に乗り上げてしまった。ブラッドフォードのバトーによる小艦隊は、オンタリオ湖を横切り、敵の攻撃を受けることなく、フロンテナック砦から1マイル(1.6キロ)の地点で上陸した。 フロンテナック砦は、インディアンや、フランスの毛皮交易者には重要な交易所だった。ここを通しての交易はかなり繁盛していて、一部のインディアンたちは、オールバニーの、廉価でイギリスの商品が多数手に入る交易所よりも、フランス人との交易の方を好んでいた。この、崩れかけた石灰岩の砦には、最低限の人数の駐屯部隊しかいなかった。100人のフランス人正規兵に、民兵とインディアンが何人かで、指揮を執っているのは、ジョージ王戦争を経験した、老練なピエール=ジャック・パイアン・ド・ノイアン・エ・ド・シャヴォイだった。砦は本来、もっと多くの人数で守られるものだが、最低限の人数しか置かないと言うことは、ヌーベルフランスの防御に人員が割かれるため、カナダの他の場所を守る人数が、有無を言わさずに削減されているということだった。ノイアンは、インディアンの斥候が、イギリス兵を何人か捕虜にしたことで、ブラッドストリートの遠征隊が近づいていることを知り、神経をとがらせた。また、モントリオールの当局も、補強部隊の編成を行っていたが、イギリス軍の到着には間に合いそうにもなかった。
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イギリスの作戦 (1755年)
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「フレンチ・インディアン戦争」の記事における「イギリスの作戦 (1755年)」の解説
イギリスは1755年の攻撃計画を立てた。エドワード・ブラドック将軍は遠征軍をデュケーヌ砦まで率いる予定だった、その一方でマサチューセッツ植民地の総督であるウィリアム・シャーリーは、オスウィーゴ砦の守りを固め、ナイアガラ砦を攻撃する任務を与えられた。サー・ウィリアム・ジョンソンはセントフレデリック砦(現在のニューヨーク州クラウンポイント)を攻略し、ロバート・モンクトン中佐は、イギリス領ノバスコシアとアカディアの境界にあるボーセジュール砦を攻略予定だった。 詳細は「エドワード・ブラドック」を参照 1755年6月、ブラドックは正規兵2000人と植民地民兵を率いてデュケーヌ砦攻略の遠征に出た。この遠征は大惨事に終わった。モノンガヘラの戦いで、フランス軍とインディアン兵はイギリス軍を待ち伏せし、ブラドックは致命傷を負った。この時の敗因として、ブラドックの戦法はヨーロッパのそれであり、アメリカの広大な境界地帯にはふさわしくなかったとする説がある。 ブラドックの戦死により、ウィリアム・シャーリーが北アメリカのイギリス軍の指揮をまかされた。1755年12月、シャーリーは翌1756年に向けた作戦計画の段取りを示した。ナイアガラ砦、クラウンポイント砦、そしてデュケーヌ砦の攻略計画を刷新し、また、オンタリオ湖北岸のフロンテナック砦を攻撃し、メインの手つかずの森林を抜けて、ショーディエール川を渡り、ケベックを攻撃するというものだった。ウィリアム・ジョンソンや、ニューヨーク総督のチャールズ・ハーディ(英語版)をはじめとする士官からは不賛成の声が出、口論になって、この計画は難航し、わずかな支持しか得られなかった。また、ニューカッスル公が1756年1月に、マサチューセッツ総督をシャーリーから第4代ラウドン伯爵ジョン・キャンベルに替え、次席指揮官にはジェームズ・アバークロンビーが就任した。両者とも、フランスが北アメリカに送り込んだ3人の士官ほどには遠征経験がなかった。 詳細は「オスウィーゴ砦の戦い (1756年)」を参照 ブラドックの死後に指揮官となったシャーリーは、オンタリオ湖畔のオスウィーゴに着き、行軍してくるフランス軍に対抗すべくそこの防御を強化した。その後イギリス本国から北アメリカの最高指揮官として赴任した第4代ラウドン伯爵(英語版)が、シャーリーに代わって指揮を執った。オスウィーゴ砦は指揮官の後退と物資の少なさに悩まされた。そして1756年8月12日、ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム率いるフランス軍がオスウィーゴ砦に攻め入ってこの砦を攻略した。イギリス軍はこれで多大な損失を出した。後にシャーリーから罷免され、上官の命令に従わなかったとして、本国で査問にかけられた。一方モンカルムはこの作戦で弾みをつけた。 詳細は「ジョージ湖の戦い」を参照 ウィリアム・ジョンソンは、ハドソン川とジョージ湖南端の間の連携水路にエドワード砦を作ろうとした。他方、ディスカウは、ヌーベルフランスの総督であるヴォードルイユの命を受け、シャンプラン湖に向かう敵軍をはぐらかすのが先だった。フランス軍とカナダの民兵とは、カリヨン砦の建設を着々と進めていた。そのフランス軍は、野営していたイギリス軍を驚かすべく砲撃を開始した。イギリスは最終的に反撃に出て、ディスカウはその時に負傷し、捕虜となった。フランスはなおもカリヨン砦の工事に取り掛かっており、ジョンソンは2つ目の砦を建設するべく、ジョージ湖の南に新しくウィリアム・ヘンリー砦を作った(1759年の攻略後、タイコンデロガ砦と改名)。 モンクトンは、この1755年の軍事計画では唯一成功した人物だった。6月のボーセジュールの戦いで、フランスのルイブール砦への陸上の援軍を断ったのである。補給路を断つために、ノバスコシア総督のチャールズ・ローレンスは、フランス語を話すアカディア人に、この地からの追放を命令した。植民地のレンジャー部隊ロジャーズ・レンジャーズを含むモンクトンの軍勢は、何千人ものアカディア人を強制的に退去(英語版)させ、抵抗するものを突き止め、残虐行為を行った。それ以上の他の要素もあって、ルイブールへの補給路の断絶はルイブールを活動停止へと導いた。 しかしアカディア人は、ボワシェベール率いる部隊やインディアンの同盟と共に抵抗し、勝利もしたが、最終的にはイギリス軍の手に落ちた。この時のイギリスの作戦、アカディア側の抵抗には以下のようなものがある。 イギリスの作戦 ファンディ湾方面作戦 プティクーディアク川方面作戦 セントジョン川方面作戦 サンジャン島方面作戦 アカディア人の抵抗 プティクーディアクの戦い ブラッディクリークの戦い (1757年) ルーネンバーグ奇襲 (1756年)
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