イギリスの介入
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「ロシア軍艦対馬占領事件」の記事における「イギリスの介入」の解説
7月9日、イギリス公使ラザフォード・オールコックとイギリス海軍中将ジェームズ・ホープが幕府に対し、イギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案、老中・安藤信正らと協議する。 7月23日、イギリス東洋艦隊の軍艦2隻(エンカウンター、リンドーブ)が対馬に回航し示威行動を行い、ホープ中将はロシア側に対して厳重抗議した。しかし実はこの時点においてオールコックも、イギリスによる対馬占領を本国政府に提案していた(8月2日付・坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社)。 また老中・安藤信正は再度、箱館奉行・村垣範正に命じてロシア領事に抗議を行わせた。これまでビリリョフの行動をそのままにさせていたロシア領事ゴシケーヴィチは、イギリスの干渉を見て形勢不利と察し、軍艦ヲフルチニックを対馬に急派し、ビリリョフを説得。文久元年8月15日(1861年9月19日)、ポサドニック号は対馬から退去した。 9月、外国奉行野々山兼寛らは幕命を奉じて対馬に渡航し、箱館談判の決議にもとづいてロシア艦滞泊後の善後処置に任じ、ロシア人の造営物は破壊し、その材料は長崎に保管した。 ロシア側の意図は、極東での根拠地獲得、南海航路の確保だったといわれ、当時アジア一帯に広大な植民地を持っていたイギリスに先を越され、対馬を租借されるのを恐れていたとされる。
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イギリスの介入
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詳細は「en:Anglo-Egyptian War」を参照 「アレクサンドリア砲撃」も参照 1882年6月11日の昼、アレクサンドリアの通りで、暴力事件が発生した。暴動を起こした人々は、ギリシャ人、マルタ人、イタリア人のビジネスマンを襲撃し、約50人のヨーロッパ人と250人のエジプト人が殺害された。この暴動が発生した理由はよく分かっておらず、ヘディーヴ、ウラービーともに、互いを非難しあった。しかし、両方にその非難する根拠を持っていたわけではなかった。 アレクサンドリアの海岸の砲台を守備していたときに、最後通牒が突きつけられた。その内容は、砲台を武装解除するかさもなければ、市街地を砲撃するというものであった。しかし、この最後通牒は無視され、ビーチャム・シーモア (Beauchamp Seymour, 1st Baron Alcester) 指揮下のイギリス艦隊は砲台に砲撃を開始した。フランス海軍もアレクサンドリアにいたが、砲撃には参加しなかった。イギリス海軍は、エジプト軍の抵抗にあったもののアレクサンドリアの占領に成功した。 革命がエジプト全体に広がるとイギリス政府は、エジプトへの介入を本格化した。9月になるとイギリス陸軍は、運河地帯に上陸した。運河地帯への進出はアレクサンドリア及びカイロの占領に先駆けて実施された。イギリスの最大の関心事は、イギリスがエジプトに供与してきた多くの借款をウラービーが破棄することとスエズ運河の支配であった。1882年9月13日、テル・エル=ケビールの戦い (Battle of Tel el-Kebir) において、イギリス陸軍はエジプト陸軍を圧倒し、ウラービーはスリランカへ流された。イヴリン・ベアリング (初代クローマー伯爵)が、事実上の「エジプト総督」として、1883~1907年まで、24年間にわたって統治にあたった。
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イギリスの介入
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「ラ・ロシェル包囲戦」の記事における「イギリスの介入」の解説
詳細は「英仏戦争 (1627-1629)」を参照 英仏の紛争は1624年にイングランドがハプスブルク家と対抗すべくフランスとの同盟を試みたものの失敗したために引き起こされた。1626年、リシュリュー枢機卿はスペインとの秘密講和を締結、これによりイングランド王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスの実家であるブルボン家との紛争が起きてしまう。このこと以上に、フランスはイギリスを国益を害する存在であると確信し、海軍力を増強していたのである。 1626年6月、ウォルター・モンタギューがフランスに渡り不平貴族と接触してフランス国内での反乱を謀る。計画では反乱を支援するためにイギリス艦隊を派遣し、ロアン公とスービーズ公がこれに呼応して新たな反乱を起こすことになっていた。
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