マラーターの凋落とイギリスへの従属
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/01 05:53 UTC 版)
「マラーター」の記事における「マラーターの凋落とイギリスへの従属」の解説
マラーターは北インドにおけるアフガン勢力との衝突(アフガン・マラーター戦争)の結果、1761年1月14日に第三次パーニーパトの戦いで全面衝突したが大敗し、主だった武将らをはじめ数万の犠牲者を出してしまった。 これにより、マラーター同盟の結束は事実上崩壊し、マラーター王国、シンディア家、ホールカル家、ボーンスレー家、ガーイクワード家、5つの勢力が分立する形となった。そして、宰相位をめぐる争いが勃発したとき、当時インドの植民地化を進めていたイギリスの介入を許すこととなった。 とはいえ、誇り高きマラーターの戦士らがイギリスの支配を簡単に受け入れるはずがなかった。第一次マラーター戦争、第二次マラーター戦争において、イギリスはマラーター同盟を崩すことに失敗したのみならず、結果的に大きな損失を出している。特に第二次マラーター戦争では、ヤシュワント・ラーオ・ホールカルの奮戦が目立った。 だが、第二次マラーター戦争を引き起こした王国宰相であるバージー・ラーオ2世は再び戦禍を招き入れ、1817年から1818年にかけて行われた第三次マラーター戦争でイギリスはマラーター同盟を制圧した。これにより、マラーターの支配領域すべてが、イギリス直轄領と藩王国となった。
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