マラーターの台頭・シヴァージーとの争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 07:02 UTC 版)
「アウラングゼーブ」の記事における「マラーターの台頭・シヴァージーとの争い」の解説
アウラングゼーブは皇位継承戦争後、帝国の繁栄を維持するため、1660年代から帝国の領土拡大を目指すようになった。北西方面ではかつてサファヴィー朝との争いに敗北したために領土の拡大は望めず、北東方面ではミール・ジュムラーがアーホーム王国と交戦状態に入っていたが、一進一退であった。そのため、アウラングゼーブはデカン方面に帝国の領土拡大を目指した。 だが、アウラングゼーブはまもなく、デカンでヒンドゥーの復興を目指すマラーターの指導者シヴァージーと衝突した。マラーターはデカンを中心とした新興カースト集団で、バフマニー朝やその継承国家であるデカン・スルターン朝は彼らを傭兵などの軍事力として依存した。シヴァージーはその一つビジャープル王国の小領主の息子として生まれたが、1640年代にマラーター勢力を率いて王国に反乱を起こし、1660年代にはアラビア海に面するコンカン地方に独自の政権を持つにいたった。彼が率いるマラーター勢力は強固な山城ラーイガドを中心に多数の砦を拠点とし、西インドの重要都市スーラトなどムガル帝国の領土に何度も襲撃、略奪をおこなった。 そのため、1660年にアウラングゼーブは叔父シャーイスタ・ハーンをデカン総督として派遣し、シヴァージーの掃討にあたらせた。だが、シャーイスタ・ハーンは息子を殺されたばかりか、自身も指を切られる大けがを負った。1664年にアウラングゼーブはシャーイスタ・ハーンを更迭し、ベンガル太守としてベンガルへと送った。 同年末、アウラングゼーブは帝国で最も強力な武将の一人ジャイ・シングをデカンへと派遣した。ジャイ・シングはラージプートのアンベール王国の君主であり、かつてダーラー・シコーの側にいた武将でもある。ジャイ・シングはアウラングゼーブの期待にたがわず、シヴァージーの城塞を次々に落とし、1665年6月にはプランダル条約を締結した。この条約では、シヴァージーは12の城以外を放棄し、ビジャープル王国への遠征に参加すること、その代わり彼にマンサブ(位階)を与えることが締結された。ビジャープル王国への遠征後、シヴァージーはジャイ・シングにアウラングゼーブとの謁見を勧められ、息子サンバージーとともに帝国の宮廷へと赴いた。
※この「マラーターの台頭・シヴァージーとの争い」の解説は、「アウラングゼーブ」の解説の一部です。
「マラーターの台頭・シヴァージーとの争い」を含む「アウラングゼーブ」の記事については、「アウラングゼーブ」の概要を参照ください。
- マラーターの台頭・シヴァージーとの争いのページへのリンク