マラーターの侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/27 04:18 UTC 版)
「カルナータカ太守」の記事における「マラーターの侵攻」の解説
カルナータカ太守は南インドに広大な領土を領有したため、マイソール王国、タンジャーヴール・マラーター王国、マドゥライ・ナーヤカ朝をはじめとする諸勢力と争った。ドースト・アリー・ハーンの治世、その娘婿であるチャンダー・サーヒブは1736年にマドゥライ・ナーヤカ朝を滅ぼし、版図の拡大に成功している。 さらには、チャンダー・サーヒブはこの勝利に乗じて、タンジャーヴール・マラーター王国の領土にさえ攻め入り、1739年にはその君主シャーフージー2世を退位に追い込んだ。だが、次の君主プラタープ・シングの治世、1740年に強力なナーグプル候ラグージー・ボーンスレーが援助のために大軍を率いて南下した。 同年5月20日にカルナータカ太守軍は応戦したが敗北し(ダーマルチェルヴの戦い)、ドースト・アリー・ハーンは殺害され、アルコットも占領された 。 ドースト・アリー・ハーン殺害後、その息子サフダル・アリー・ハーンと娘婿チャンダー・サーヒブとの間に太守位をめぐる争いが起き、前者がラグージー・ボーンスレーの支持を得て、11月16日に新太守となった。一方、チャンダー・サーヒブへと逃げ、ティルチラーパッリに籠城したが、1741年初頭に ティルチラーパッリ包囲戦で捕虜になり、マラーター王国の首都サーターラーへと送られた。
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