マラーター、アフガン両勢力の対立
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「第三次パーニーパットの戦い」の記事における「マラーター、アフガン両勢力の対立」の解説
1756年12月、アフマド・シャー・ドゥッラーニーはマラーターに敵対するムガル帝国の宮廷内勢力の要請を受け、その領土に向けて遠征した。1757年1月にアフマド・シャーはその首都デリーを占領し、2月には略奪と殺戮を行い、マトゥラーやヴリンダーヴァンでも行った。4月に彼は撤退し(その帰途、シク教の聖地であるアムリトサルの黄金寺院を破壊した)、皇帝アーラムギール2世は帝位を保ったが、ローヒラー族のナジーブ・ハーンが宮廷の実権を握った。 このアフガン軍の行動に対し、王国宰相バーラージー・バージー・ラーオはすぐに弟ラグナート・ラーオをデリーに送った。だが、同年8月に彼がデリーの戦いでアフガン勢力を破ったときには、アフマド・シャーはすでに退却しており間に合わなかった。 1758年3月、ラグナート・ラーオはパンジャーブのラホールへと兵を進め、シク教徒の援助も得て、4月20日にラホールを奪い(ラホールの戦い)、アフマド・シャーの息子ティムール・ミールザーを追い払った。王国軍にはシンディア家やホールカル家の軍勢の助力も得て、同月28日にはアトックを(アトックの戦い)、さらに5月8日にはペシャーワルを占領した(ペシャーワルの戦い)。そして、マラーター軍がパンジャーブ一帯を占領したのち、同月にラグナート・ラーオはラホールからプネーへと帰還した。 このように、北進するマラーター勢力と南下するアフガン勢力はそれぞれ利害が対立し、互いにその存在が障害となっており、その衝突は避けられないものとなっていた。
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