マラーターとの衝突
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 19:07 UTC 版)
同月、アウラングゼーブは領土拡大とマラーター討伐のため、総数50万というかつてないほどの大軍を率いてデカンに大挙南下し、11月にはデカン地方への入り口たるブルハーンプルに到着した。これ以降、アウラングゼーブはデカン戦争に残りの生涯を費やし、死ぬまで帝都デリーには戻らなかった。 同年末、ムガル帝国軍はマラーター側の拠点ラームセージュを包囲したが、攻めあぐねる結果となり、足止めされた。一方、同年12月にマラーター王サンバージーも、ムガル帝国側の拠点ジャンジーラを攻めたが、彼も攻めあぐねていた。 同時に、アウラングゼーブは指揮官の一人フサイン・アリー・ハーンに命じて、マラーター王国の北コンカン地方の領土を攻めさせた。 1682年初頭、サンバージーはこれに対処するため、ジャンジーラの包囲を解き、フサイン・アリー・ハーンと交戦し、これを撃退した。この頃、アウラングゼーブは莫大な兵糧をデカンに供給するため、陸路だけでなく海路も考え、ゴアのポルトガル総督から港の使用許可を得ることを試みている。 1683年末、アウラングゼーブはアフマドナガルに移動し、この地からマラーターとの戦闘指揮にあたった。 1684年2月、アウラングゼーブは指揮官の一人シャハブッディーン・ハーンに、マラーター王国の拠点ラーイガド城を攻めさせたが、落とすことはできず、1685年初頭になっても進展が見られなかった。 このように、ムガル帝国とマラーター勢力は4年近くにもわたりデカンで争ったが、戦線は膠着したため、アウラングゼーブの目はデカンで細々と存続していたビジャープル王国とゴールコンダ王国に向けられた。長い包囲戦を経たのち、1686年9月にビジャープル王国を、翌1687年9月にはゴールコンダ王国を制圧し、これらを併合した。
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