ゴールコンダ王国とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ゴールコンダ王国の意味・解説 

ゴールコンダ王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/07 22:12 UTC 版)

ゴールコンダ王国
سلطنت قطب شاهی
1518年 - 1687年
(国旗)
公用語 ペルシア語
首都 ゴールコンダ
ハイダラーバード
スルタン
1518年 - 1543年 スルターン・クリー・クトゥブ・シャー
1672年 - 1687年 アブル・ハサン・クトゥブ・シャー
変遷
1518年 成立
1687年 滅亡
現在 インド

ゴールコンダ王国(ゴールコンダおうこく、: Golconda Sultanate)は、16世紀初頭から17世紀末にかけてインドデカン地方に存在した、バフマニー朝が分裂してできたデカン・スルターン朝のひとつであるイスラーム王朝。クトゥブ・シャーヒー朝: Qutb Shahi dynasty)とも呼ばれる。首都はゴールコンダハイダラーバード

歴史

建国

ゴールコンダ要塞から王陵墓を望む

デカン高原一帯を支配したバフマニー朝、その13代目の王ムハンマド・シャー3世ロシア語版の統治期(1493年)に、テランガーナ地方で問題が発生したためスルターン・クリー・クトゥブル・ムルクが同地方の総督として派遣された[1][2]。クリー・クトゥブル・ムルクは、続くマフムード・シャーからも幾つかの称号を授けられ、バフマニー朝の宰相となった。

1518年、彼は独立を宣言してゴールコンダ王国をうちたてた。そして、王国の首都をゴールコンダに定め、カーカティーヤ朝期の古ぼけた泥の砦を強固な石のゴールコンダ要塞都市として再造営した[2]。彼の後継者もその事業を受け継ぎ、数多くの強固な増築がなされた。

内乱

クリー・クトゥブ・シャーは1543年ジャムシード・クリー・クトゥブ・シャー(在位1543年 - 1550年)に殺害された。しかし、1550年ジャムシードが死ぬと、その息子スブハーン・クリー・クトゥブ・シャー(在位1550年)はヴィジャヤナガル王国に亡命していたジャムシードの弟イブラーヒーム・クリー・クトゥブ・シャー(在位1550年 - 1580年)に討たれた。

最盛期

ムハンマド・クリー・クトゥブ・シャーの肖像

16世紀後半ヴィジャヤナガル王国が圧迫してくると、イブラーヒーム・クリー・クトゥブ・シャーはほかのムスリム5王国と同盟し、1565年ヴィジャヤナガル王国軍をターリコータの戦いで撃破した[1]

1580年イブラーヒームが死ぬと、息子のムハンマド・クリー・クトゥブ・シャー(在位1580年 - 1612年)が王となった。この王の治世下は、長らく平和で繁栄に満ちたものである一方、衰退するヴィジャヤナガル王国の領土にもたびたび侵入した。まさに、ゴールコンダ王国の絶頂期をもたらした王とされる。

1589年、ムハンマド・クリー・クトゥブ・シャーは、ムーシー川周辺が豊かな緑に覆われた土地であることに目をつけ、そこをゴールコンダ王国の王都に定めた。有名な言い伝えによると、そこにはチチェラムという村が存在したが(チャール・ミナールがあるあたり)、彼はこの新しい王都の名を、愛してやまなかった美しい踊り子であるバーグマティーにちなんで、バーグナガルと命名した。王からのこの贈り物に驚いた彼女は、ムスリムに改宗して、自身の名をハイダル・マハルという以前と全く異なるムスリム名に改めた。しかし、王はめげることなく王都の名をハイダラーバード(すなわち「ハイダルの町」)と改めた。

1611年に王が没すると、甥のスルターン・ムハンマド・クトゥブ・シャー(在位1612年 - 1626年)が王座を引き継ぎ、1614年にヴィジャヤナガル王ヴェンカタ2世が死ぬと、彼は王族間の内乱にも介入するなど、ヴィジャヤナガル王国に対しての圧迫を強めている(トップールの戦いなど)[1]

衰退と滅亡

アブル・ハサン・クトゥブ・シャー

1626年にスルターン・ムハンマド・クトゥブ・シャーが没すると、ムガル帝国の圧迫によりゴールコンダ王国は徐々に衰退へと向っていくが、滅亡までにはさらに60年の歳月を要し、二人の王-アブドゥッラー・クトゥブ・シャー(在位1626年-1672年)(スルターン・ムハンマドの息子)、およびアブル・ハサン・クトゥブ・シャー(在位1672年1687年)(アブドゥッラーの娘婿であり、そしてゴールコンダ王国初代の従兄弟の曾孫)がこの王国の末期を飾った。

ムガル帝国の版図拡大政策により、1687年ゴールコンダ王国はアウラングゼーブ皇帝指揮の第三次遠征軍の大攻撃をうけた。ゴールコンダ王国軍は、難攻不落のゴールコンダ要塞に篭城して、長期にわたる包囲攻城戦をよく持ちこたえていた。しかし、アフガニスタン戦士アブドゥッラー・ハーンの裏切りにより戦局は一転。彼は遠征軍に内通し、同年(1687年9月21日早朝に、守備兵員が手薄となっていたキールキー城門から、密かにムガル帝国軍を迎え入れた。ゴールコンダ王国守備軍は、完全に無防備を襲われ、防御線を瞬く間に破られてしまう。かくしてゴールコンダ要塞は、この年ついにアウラングゼーブ帝遠征軍のまえに陥落する。これは、同時にゴールコンダ王国の滅亡でもあった[3][4]

王たちの偉業

ゴールコンダ王国の統治期は、アーンドラ・プラデーシュ州における建築および芸術の黄金時代であった[5]歴代ゴールコンダ王国の王たちは偉大な建築家であり、また建設をこよなく愛していた。彼らの統治期に、数え切れない宮殿や邸宅(後のムガル帝国遠征軍により徹底的に破壊され、灰燼と帰したが)、壮麗なモスク、そして数えきれないほどの湖や溜池が造営された。これらは18世紀に帝国から独立したニザーム王国のもとで活躍した。

また王国中葉の王は、アーンドラ・プラデーシュ州の在来言語であるテルグ語を保護し、教養階級の公用語であったアラビア語ペルシア語、およびウルドゥー語と同様に奨励したことでも知られる。

歴代君主

  1. スルターン・クリー・クトゥブ・シャー(在位:1518年 - 1543年)
  2. ジャムシード・クリー・クトゥブ・シャー(在位:1543年 - 1550年)
  3. スブハーン・クリー・クトゥブ・シャー(在位:1550年)
  4. イブラーヒーム・クリー・クトゥブ・シャー(在位:1550年 - 1580年)
  5. ムハンマド・クリー・クトゥブ・シャー(在位:1580年 - 1612年)
  6. スルターン・ムハンマド・クトゥブ・シャー(在位:1612年 - 1626年)
  7. アブドゥッラー・クトゥブ・シャー(在位:1626年 - 1672年)
  8. アブル・ハサン・クトゥブ・シャー(在位:1672年 - 1699年)

脚注

  1. ^ a b c 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.126
  2. ^ a b George Michell, Mark Zebrowski, Architecture and Art of the Deccan Sultanates, (Cambridge University Press, 1999), 17.
  3. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.210
  4. ^ Satish Chandra, Medieval India: From Sultanat to the Mughals, Part II, (Har-Anand, 2009), 331.
  5. ^ Satish Chandra, Medieval India: From Sultanat to the Mughals, Part II, (Har-Anand, 2009), 210.

参考文献

  • 小谷汪之『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年。 

関連項目


ゴールコンダ王国(1518年 - 1687年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 22:06 UTC 版)

ハイデラバード (インド)」の記事における「ゴールコンダ王国(1518年 - 1687年)」の解説

「ゴールコンダ王国」も参照 その後200年にわたりデカン高原一帯支配したバフマニー朝、その13代目の王ムハンマド・シャー3世統治期(1463年)に、テランガーナー地方問題発生したためクリー・クトゥブル・ムルクが同地方の総督として派遣された。スルターン・クリー・クトゥブル・ムルクは、続くムハンマド・シャー4世からもいくつかの称号授けられバフマニー朝宰相となった1518年、彼は独立宣言してゴールコンダ王国をうちたてた。そして、王国首都ゴールコンダ定めカーカティーヤ朝期の古ぼけた泥の砦を強固な石のゴールコンダ城として再造営した。彼の後継者その事業を受け継ぎ数多く強固な増築なされた。 ゴールコンダ王国の統治期は、アーンドラ・プラデーシュにおける建築および芸術黄金時代だった。歴代ゴールコンダ王国の王たちは偉大な建築家であり、また建設こよなく愛していた。彼らの統治期に数え切れない宮殿邸宅(後のムガル帝国遠征軍により徹底的に破壊され灰燼帰したが)、壮麗なモスク、そして数えきれないほどの湖や溜池造営された。また王国中葉の王は、アーンドラ・プラデーシュ州在来言語であるテルグ語保護し教養階級公用語だったアラビア語ペルシア語、およびウルドゥー語同様に奨励した1589年5代目の王ムハンマド・クリー・クトゥブ・シャーは、ハイダラーバードの南を流れムシ周辺豊かな緑に覆われ土地であることに目をつけ、そこをゴールコンダ王国の王都定めた有名な言い伝えによると、そこにはチチェラムという存在したチャール・ミナールがあるあたり)が、彼はこの新し王都の名を、愛してやまなかった美し踊り子であるバーグマティーにちなんで、バーグナガルと命名した。王からのこの贈り物驚いた彼女はムスリム改宗して、自身の名をハイダル・マハルという以前と全く異なムスリム名に改めた。しかし、王はめげることなく王都の名を「ハイダルの町」を意味するハイダラーバード」に改めたそれ以来この都市はこの名で呼ばれるようになった1611年に王が没すると、甥のスルターン・ムハンマド・クトゥブ・シャー王座引き継いだ1626年にこの王が没すると、ゴールコンダ王国は徐々に衰退へと向っていくが、滅亡までにはさらに60年歳月要しアブドゥッラー・クトゥブ・シャー(スルターン・ムハンマドの息子在位1626年 - 1672年)とアブル・ハサン・クトゥブ・シャーアブドゥル娘婿であり、そしてゴールコンダ王国初代従兄弟曾孫在位1672年 - 1687年)の2人の王がこの王国末期飾ったムガル帝国版図拡大政策により、1687年ゴールコンダ王国はアウラングゼーブ皇帝指揮第3次遠征軍の大攻撃をうけた。ゴールコンダ王国軍は、難攻不落ゴールコンダ城に篭城して、長期にわたる包囲攻城戦をよく持ちこたえていた。しかし、アフガニスタン戦士アブドゥッラー・ハーンの裏切りにより戦局一転。彼は遠征軍内通し1687年9月21日早朝守備兵員が手薄となっていたキールキー城門から密かにムガル帝国軍を迎え入れたクトゥブ・シャーヒー王国守備軍は、完全に無防備だったところを襲われ防御線を瞬く間破られてしまった。かくしてゴールコンダ城は、この年ついにアウラングゼーブ遠征軍のまえに陥落した。これは、同時にゴールコンダ王国の崩壊でもあった。

※この「ゴールコンダ王国(1518年 - 1687年)」の解説は、「ハイデラバード (インド)」の解説の一部です。
「ゴールコンダ王国(1518年 - 1687年)」を含む「ハイデラバード (インド)」の記事については、「ハイデラバード (インド)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ゴールコンダ王国」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ゴールコンダ王国」の関連用語

ゴールコンダ王国のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ゴールコンダ王国のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのゴールコンダ王国 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのハイデラバード (インド) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS