即位と王国の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/01/03 15:15 UTC 版)
「シュリーランガ3世」の記事における「即位と王国の崩壊」の解説
1642年10月にヴェンカタ3世が死亡したことにより、シュリーランガがシュリーランガ3世として王位を継承することとなり、同月29日に即位した。 だが、シュリーランガ3世は先王に対する反乱から、ダーマルラ・ヴェンカタ・ナーヤカやシェンジ・ナーヤカ朝といった有力なナーヤカからは嫌われており、彼はゴールコンダ王国に援助を求めるありさまだった。 しかし、これはゴールコンダ王国のさらなる進出を誘うこととなり、1643年中頃の時点でウダヤギリとシッダヴァタムがその手中を離れた。 1644年1月3日、ビジャープル王国は君主ムハンマド・アーディル・シャーに率いられた軍勢が南インドに遠征し、3月25日に帰還したが、この年までにヴィジャヤナガル王国の北側を占領されるところとなった。 1646年1月あるいは2月、ゴールコンダ王国の武将ミール・ジュムラーは再度の遠征を開始し、4月の時点で旧都チャンドラギリとティルパティはゴールコンダ側の手に落ちていた。シュリーランガ3世はマイソール王国やタンジャーヴール・ナーヤカ朝、シェンジ・ナーヤカ朝の援軍を以て大軍を組織し、ゴールコンダ軍を破ったが、現状は変わらなかった。 同年3月あるいは4月、ビジャープル王国とゴールコンダ王国の間で、南インドのカルナータカ地方分割協定が結ばれ、6月5日にムスタファー・ハーン率いる軍勢が遠征を開始した。 1647年2月、ビジャープル軍は首都ヴェールールを包囲し、これを占領したが、シュリーランガ3世は逃げ延び、タンジャーヴール・ナーヤカ朝の保護を受けた。 1649年、ビジャープル軍はタンジャーヴールも包囲して、これも陥落させ、この時点で実体の無かったヴィジャヤナガル王国は滅亡した。
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