即位と治世とは? わかりやすく解説

即位と治世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 18:28 UTC 版)

徽宗」の記事における「即位と治世」の解説

元符3年1100年)、兄哲宗嗣子のないまま25歳崩御したため、弟である趙佶皇帝即位した宰相章惇重臣趙佶皇帝として資質疑念抱いていたため他の皇子簡王趙似など)を皇帝推したが、皇太后向氏意向により趙佶決まったとされている。 治世当初向氏垂簾聴政行ったとされ、章惇蔡卞哲宗時代急進的な新法派退け旧法派韓忠彦と穏健新法派曾布起用、彼らは新法旧法両派から人材登用して新法旧法の争い収め福祉政策充実させるなど漸進的な改革進めた通説ではこれらの政策向氏の策とされているが、徽宗自身構想とする異説もある)。また、徽宗自身芸術家の魂ともいえる絵筆折って政治への意欲示し成人している皇帝がいるのに垂簾聴政が行われるのはおかしいと批判され向太后7月政務一線を退くと、自ら政務関わるようになった。だが、曾布李清臣新法派同士対立旧法派巻き込み政情急速に不安定化していく。こうした状況徽宗現状あり方飽き足らなくなっていく。そんな時に登場したのは急進新法派蔡京である。徽宗即位後に向太后信任背景中央復帰した彼は一旦は徽宗韓忠彦・曾布警戒受けて再び左遷される。だが、中央の情勢変化乗じて策動行い韓忠彦・曾布失脚させて政権掌握するに至る。 蔡京政権を握ると、旧法派もちろんのこと曾布実弟蔡卞自分批判した新法派人々にも激し弾圧加えられた。これには徽宗後悔し、遼との外交政策対立などを理由蔡京何度追放している。だが、宮廷主要な官職はほとんどが蔡京の手下で占められていたこと、何よりも徽宗蔡京芸術的な嗜好が近いことによる親近感から、すぐに蔡京復帰させた。 文人画人としての徽宗はその才能高く評価され宋代代表する人物一人とされる痩金体(「痩金」は徽宗の号)と称される独特の書体創出し絵画では写実的な院体画完成、「風流天子」と称された。現在、徽宗真筆極めて貴重な文化財となっており、日本にある『桃鳩図』は国宝指定されている。 皇帝として徽宗は自らの芸術の糧とするために、庭園造営用い大岩や木を遠く南方より運河使って運ばせた(花石綱)。また芸術活動資金作りのために、明代小説水滸伝』における悪役として著名な蔡京宦官童貫らを登用して民衆重税課した神宗哲宗期新法はあくまで国家財政健全化のためであったが、徽宗はそれを自らの奢しゃ侈しのために用いるに至ったのである。この悪政一環としては、土地測量する際に正規の尺より8パーセントあまり短い、本来は楽器測定用いる楽尺といわれる尺を用い発生した余剰田地強制的に国庫編入したり、売買契約書曖昧な土地収用するなどの強引な手段もとっている。 さらに徽宗芸術没頭する一方で、自らの権力強化努めた特徴的であったのは御筆手詔(御筆)の発行である。御筆手詔制度萌芽神宗期遡るが、徽宗事あるごとに自ら詔を書いて役所などに直接命令し三省枢密院異議を挟むことを認めずその実施の遅滞厳罰をもって処したのである蔡京徽宗側近であった息子蔡攸などを介して御筆手詔掌握努めようとしたが、かえって詔を記す徽宗意向振り回されることになり、結果的に徽宗行動抑止できない彼の政治的影響力の減退を招くこととなり、政和6年1116年)の封禅中止問題機に蔡京宰相として立場名目的なものと化していった。反対に宣和年間以降は、徽宗とそれを取り巻近臣宦官蔡攸代表される側近)による専制成立することになり、宰相執政の力は失われることになったこのような悪政によって民衆恨み高まり方臘の乱初めとした民衆反乱続発したこうした反乱指導者中に山東活動した宋江という者がおり、これをモデルにした講談から発展して誕生したのが『水滸伝』である。

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即位と治世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 17:07 UTC 版)

テグデル」の記事における「即位と治世」の解説

翌月6月21日再度王族諸侯諸将からの忠誠の誓約によって玉座につき、イスラーム信奉していたことにより、スルターン・アフマドと称することが宣言された。 テグデル即位すると、自らのイスラーム対す信奉内外表明することに努めマムルーク朝のスルターン・カラーウーンに親書送ってこれと友好築こうとし、バグダードモスクやムスタンスィリーヤ学院などの諸所マドラサワクフなどの多大な寄進進めたまた、讒訴によって投獄されていたバグダード長官アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニー釈放して再びバグダード管理任せている。これらのためアルメニアネストリウス派などの国内キリスト教勢力仏教勢力保護年金打ち切りや、寺院などモスク改修する命令などが出されたと伝えられている。

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即位と治世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 14:22 UTC 版)

ヨハン1世 (スウェーデン王)」の記事における「即位と治世」の解説

1216年エリク10世が急死すると、スウェーデン貴族教皇意向反して15歳ヨハン擁立した。彼は1219年ヨハン1世として戴冠した彼の治世の間に、ヨハン1世従兄ヤールカール・ドーヴ(聾のカール)と聖職者カール・マグヌソンがエストニアレーネ遠征したが、1220年リフラの戦い両者とも戦死しその後300年にわたりスウェーデン勢力エストニアから駆逐されることとなった。この遠征についてはリヴォニアヘンリー年代記リヴォニア押韻年代記記されている。 ヨハン1世1222年死去した。子が無かったために、再びエリク家のエリク・エーリクソンが6歳エリク11世として即位した

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