即位と治世
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元符3年(1100年)、兄哲宗が嗣子のないまま25歳で崩御したため、弟である趙佶が皇帝に即位した。宰相章惇ら重臣は趙佶の皇帝としての資質に疑念を抱いていたため他の皇子(簡王趙似など)を皇帝に推したが、皇太后向氏の意向により趙佶に決まったとされている。 治世当初は向氏が垂簾聴政を行ったとされ、章惇・蔡卞ら哲宗時代の急進的な新法派を退け、旧法派の韓忠彦と穏健新法派の曾布を起用、彼らは新法・旧法両派から人材を登用して新法旧法の争いを収め、福祉政策を充実させるなど漸進的な改革を進めた(通説ではこれらの政策は向氏の策とされているが、徽宗自身の構想とする異説もある)。また、徽宗自身も芸術家の魂ともいえる絵筆を折って政治への意欲を示し、成人している皇帝がいるのに垂簾聴政が行われるのはおかしいと批判された向太后が7月に政務の一線を退くと、自ら政務に関わるようになった。だが、曾布と李清臣の新法派同士の対立に旧法派も巻き込み政情は急速に不安定化していく。こうした状況に徽宗は現状のあり方に飽き足らなくなっていく。そんな時に登場したのは急進新法派の蔡京である。徽宗の即位後に向太后の信任を背景に中央に復帰した彼は一旦は徽宗や韓忠彦・曾布の警戒を受けて再び左遷される。だが、中央の情勢の変化に乗じて策動を行い、韓忠彦・曾布を失脚させて政権を掌握するに至る。 蔡京が政権を握ると、旧法派はもちろんのこと、曾布や実弟の蔡卞ら自分を批判した新法派の人々にも激しい弾圧が加えられた。これには徽宗も後悔し、遼との外交政策の対立などを理由に蔡京を何度か追放している。だが、宮廷の主要な官職はほとんどが蔡京の手下で占められていたこと、何よりも徽宗と蔡京の芸術的な嗜好が近いことによる親近感から、すぐに蔡京を復帰させた。 文人、画人としての徽宗はその才能が高く評価され、宋代を代表する人物の一人とされる。痩金体(「痩金」は徽宗の号)と称される独特の書体を創出し、絵画では写実的な院体画を完成、「風流天子」と称された。現在、徽宗の真筆は極めて貴重な文化財となっており、日本にある『桃鳩図』は国宝に指定されている。 皇帝としての徽宗は自らの芸術の糧とするために、庭園造営に用いる大岩や木を遠く南方より運河を使って運ばせた(花石綱)。また芸術活動の資金作りのために、明代の小説『水滸伝』における悪役として著名な蔡京や宦官の童貫らを登用して民衆に重税を課した。神宗、哲宗期の新法はあくまで国家財政の健全化のためであったが、徽宗はそれを自らの奢しゃ侈しのために用いるに至ったのである。この悪政の一環としては、土地を測量する際に正規の尺より8パーセントあまり短い、本来は楽器の測定に用いる楽尺といわれる尺を用い、発生した余剰田地を強制的に国庫に編入したり、売買契約書が曖昧な土地を収用するなどの強引な手段もとっている。 さらに徽宗は芸術に没頭する一方で、自らの権力強化に努めた。特徴的であったのは御筆手詔(御筆)の発行である。御筆手詔の制度の萌芽は神宗期に遡るが、徽宗は事あるごとに自ら詔を書いて各役所などに直接命令し、三省や枢密院が異議を挟むことを認めず、その実施の遅滞は厳罰をもって処したのである。蔡京は徽宗の側近であった息子の蔡攸などを介して御筆手詔の掌握に努めようとしたが、かえって詔を記す徽宗の意向に振り回されることになり、結果的には徽宗の行動を抑止できない彼の政治的影響力の減退を招くこととなり、政和6年(1116年)の封禅中止問題を機に、蔡京の宰相としての立場は名目的なものと化していった。反対に宣和年間以降は、徽宗とそれを取り巻く近臣(宦官や蔡攸に代表される側近)による専制が成立することになり、宰相や執政の力は失われることになった。 このような悪政によって民衆の恨みは高まり、方臘の乱を初めとした民衆反乱が続発した。こうした反乱指導者の中に山東で活動した宋江という者がおり、これをモデルにした講談から発展して誕生したのが『水滸伝』である。
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即位と治世
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翌月の6月21日に再度王族、諸侯、諸将からの忠誠の誓約によって玉座につき、イスラームを信奉していたことにより、スルターン・アフマドと称することが宣言された。 テグデルは即位すると、自らのイスラームに対する信奉を内外に表明することに努め、マムルーク朝のスルターン・カラーウーンに親書を送ってこれと友好を築こうとし、バグダードのモスクやムスタンスィリーヤ学院などの諸所のマドラサにワクフなどの多大な寄進を進めた。また、讒訴によって投獄されていたバグダードの長官アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーを釈放して再びバグダードの管理を任せている。これらのためアルメニアやネストリウス派などの国内のキリスト教勢力や仏教勢力は保護年金の打ち切りや、寺院などをモスクに改修する命令などが出されたと伝えられている。
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即位と治世
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「ヨハン1世 (スウェーデン王)」の記事における「即位と治世」の解説
1216年にエリク10世が急死すると、スウェーデン貴族は教皇の意向に反して15歳のヨハンを擁立した。彼は1219年にヨハン1世として戴冠した。彼の治世の間に、ヨハン1世の従兄のヤール、カール・ドーヴ(聾のカール)と聖職者カール・マグヌソンがエストニアのレーネに遠征したが、1220年リフラの戦いで両者とも戦死し、その後300年にわたりスウェーデンの勢力はエストニアから駆逐されることとなった。この遠征についてはリヴォニアのヘンリーの年代記やリヴォニアの押韻年代記に記されている。 ヨハン1世は1222年に死去した。子が無かったために、再びエリク家のエリク・エーリクソンが6歳でエリク11世として即位した。
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