即位と王国平定
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「アンリ4世 (フランス王)」の記事における「即位と王国平定」の解説
カトリック陣営はギーズ公アンリを首領とするカトリック同盟を結成して巻き返し、またも戦争が再開する。1584年、王弟アランソン公フランソワの死に伴い、ナバラ王アンリは筆頭王位継承権者となった。宗教戦争にフランス王位継承問題もからみ、アンリ3世とカトリック同盟のギーズ公アンリ、そしてユグノー盟主のナバラ王アンリによる、三アンリの戦いと呼ばれる様相を呈するようになった。 危機感を覚えたギーズ公は、アンリ3世に圧力をかけて1585年にヌムール勅令を出させ、ナバラ王アンリの王位継承権を無効とさせる。ローマ教皇シクストゥス5世もこれに同調する教書を出す。不利になったナバラ王アンリだったが、穏健派カトリック貴族の協力を得て、1587年のクートラの戦いではカトリック軍に大勝することに成功している。 アンリ3世は交渉による和平を模索するが、1588年5月にパリで起こったバリケードの日事件を契機としてギーズ公はアンリ3世に、自らの推すブルボン枢機卿シャルル(ナバラ王アンリの叔父)を王位継承者と認めさせることに成功し、カトリック側が優位に立った。だが、巻き返しを図るアンリ3世は同年12月、ギーズ公とその弟ギーズ枢機卿ルイを暗殺した。カトリック同盟と敵対したアンリ3世はナバラ王アンリのユグノー軍と合流して、カトリック同盟の本拠地パリの奪回を図るが、1589年8月にアンリ3世もまた熱狂的なドミニコ会士の凶刃に倒れた。 アンリ3世は死の床にナバラ王アンリを呼んで王位を託し、同時にカトリックへの改宗を勧めた。8月2日、アンリ3世が死去してヴァロワ朝は断絶した。35歳のナバラ王アンリがフランス王位を継承してアンリ4世となり、新たにブルボン朝が開かれることになる。 しかし、スペインの後ろ盾を持つカトリック同盟はローマ教皇から破門されていたアンリ4世を認めず、ギーズ公の弟のマイエンヌ公シャルルを盟主に擁立、ブルボン枢機卿に「シャルル10世」を称させて新国王に擁立し、アンリ4世に戦いを挑んだ。アンリ4世は各地を転戦してカトリック同盟と戦いつつパリ攻略を目指すが、頑強な抵抗を受け容易に陥落できなかった。一方、1590年にブルボン枢機卿が死去したためカトリック同盟も決め手を欠いていた。 アンリ4世は、カトリック信者が圧倒的なパリがプロテスタントの王を受け入れることがないと悟った。1593年7月にアンリ4世は寵妃ガブリエル・デストレへ「とんぼ返りを打つことにする」と手紙を書き送っている。同年7月25日、アンリ4世はサン=ドニ大聖堂で司祭の祝福を受けてカトリックに改宗した。巷間知られるところによれば「Paris vaut bien une messe」(パリはミサを捧げるに値する都市である)と語ったとされる。 これによって、なおカトリックが優勢であったフランス国民の広汎な支持を受けることに成功し、1594年2月27日にシャルトル大聖堂で正式に成聖式(戴冠式)を執り行うことができた(本来はランス大聖堂で行わねばならないが、この時点では未だカトリック同盟の勢力下にあった)。同年3月22日に遂にパリ入城を果たす。その後、地方の各都市も続々とアンリ4世に帰順し、マイエンヌ公と甥でギーズ公の遺児シャルル1世も帰順しカトリック同盟は瓦解した。 ブルターニュではスペインの支援を受けたメルクール公が抵抗を続けており、1595年にアンリ4世はスペインに宣戦布告をしてブルターニュ平定を行った。メルクール公が降伏し、スペインとの和平交渉も始まった1598年4月30日にアンリ4世はナントの勅令を発した。同勅令はカトリックをフランスの国家的宗教であると宣言しつつ、プロテスタントに多くの制約はあるものの信仰の自由を認め、フランスにおける宗教戦争の終息を図ったものであった。
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