即位と結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:41 UTC 版)
「ニコライ2世 (ロシア皇帝)」の記事における「即位と結婚」の解説
ペテルブルクでバレリーナとして活躍していたマチルダ・クシェシンスカヤを愛人としていたニコライ皇太子にはすでに心に決めた人がいた。それはドイツ帝国領邦ヘッセン大公国の大公ルートヴィヒ4世とその妃アリス(ヴィクトリア英女王の次女)の間の末娘アリックスだった。彼女は母を早期に失ったため、祖母ヴィクトリア英女王の下で育てられた「生粋のイギリス人」であった。ニコライとアリックスは1886年、ニコライの叔父セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公とアリックスの姉エリーザベトの結婚式で初めて知り合い、その後、何度か再会する機会を得て親しくなった。ニコライは1891年12月に日記の中で「ヘッセン家のアリックスと結婚するのが夢だ」と書いている。 ただロシア皇太子妃になるためにはロシア正教に改宗する必要があり、アリックスはそれを拒んでいた。1894年4月にヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ(アリックスの兄)とヴィクトリア(ヴィクトリア英女王の次男ザクセン=コーブルク=ゴータ公アルフレートの娘)の結婚式に出席した際、アリックスと二人だけで話す機会に恵まれた。ニコライが熱心に説得した結果、アリックスはロシア正教に改宗して婚約する決意を固めてくれた。 同年初秋に父帝アレクサンドル3世が病に倒れた。10月中旬になるとクリミアで寝たきりになり、ニコライ皇太子が皇帝の公務を代行するようになった。父帝は11月1日に崩御した。ニコライは日記の中で「皆にあれほど愛されたパパは神に召されてしまった。これこそが聖人の死だ。この悲しい時をどう耐えたらいいのだろう。神様、どうぞお助けください」と書いている。 26歳でロシア皇帝に即位することとなったニコライ2世は、なるべく早期にアリックスを皇后に迎えたがり、父の遺体が屋根の下にあるうちに彼女と結婚することを希望したが、叔父たちが皇帝の結婚式は盛大に行われるべきであり、服喪と一緒に行うわけにはいかないと反対したため、断念した。とりあえずアリックスはロシア正教への改宗を行い、以降アレクサンドラ・フョードロヴナと名乗るようになった。結婚式は父帝の大葬から一週間後に挙式されたが、アレクサンドラは「私たちの結婚式は、まるで死者のためのミサの連続のように思えました。違ったのは私が黒い喪服から白いドレスに着替えたことだけです」という感想を書いている。 ペテルブルクの社交界ではロシア語とフランス語が必須だったが、アレクサンドラはロシア語の勉強を始めたばかりで母語の英語以外はうまく扱えなかった。またそもそも彼女は社交的な性格でもなかった。そのため若き皇后はすぐにも社交界での評判が悪くなった。アレクサンドラの方も英国社交界に比べてロシア社交界は贅沢三昧で背徳的と看做して嫌っていた。こうしたペテルブルク社交界との不仲のためか、ニコライ2世とアレクサンドラはペテルブルクよりツァールスコエ・セローのアレクサンドロフスキー宮殿で生活することを好んだ。
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