即位と遺臣とは? わかりやすく解説

即位と遺臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:21 UTC 版)

武王 (秦)」の記事における「即位と遺臣」の解説

恵文王14年紀元前311年)、恵文王没する太子であった太子蕩が即位した恵文王の臣をそのまま用い司馬錯討ち、商・於の地(かつて商鞅が封ぜられた土地)を奪って黔中郡設置する成果挙げた。 しかし、武王太子の頃より謀略家である張儀不仲だったため、群臣張儀讒言するようになった。そのため諸侯張儀武王と仲が悪く隙があるのを聞くと、みな連衡背いて再度合従するようになった武王元年紀元前310年)、武王は魏の恵王臨晋会合した張儀武王に誅されるの恐れて、「斉は私を恨んでおりますので、どうか私を魏に使わせ下さいそうすれば必ず斉は魏を討つでしょう大王はその隙に魏や韓をお討ち下さい」と武王言った。翌武王2年紀元前309年)に張儀念願叶って魏に赴いた張儀は秦に帰る事無くそのまま魏で没した先王よりの蜀経営は、紀元前310年成都大城を築くなどそのまま引き継がれた。しかし、紀元前309年に蜀の国相陳壮謀反起こし蜀侯通を殺した武王は庶長の甘茂司馬錯命じてすぐに蜀を討伐陳壮誅殺して乱を収めた武王3年紀元前308年)に公子惲(恵文王の子)を封じて蜀侯とするなどし、ようやく蜀の政情ひとまず安定見たこの年、秦に初め丞相設置し樗里疾恵文王の弟、樗里子とも)と甘茂それぞれ左右丞相とした。 武王2年紀元前309年11月武王丞相甘茂らに命じて田律定めさせた。これは詳細に農田と道路制度規定し毎年指定した時期修復するものであった

※この「即位と遺臣」の解説は、「武王 (秦)」の解説の一部です。
「即位と遺臣」を含む「武王 (秦)」の記事については、「武王 (秦)」の概要を参照ください。

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