即位の礼の変遷
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記紀に記される記録の限りでは、即位礼は元日に行われていたが、これは推古天皇の時代に隋帝国から暦法が輸入されたときに、大陸の歴代帝室の例に倣って正月即位が取り入れられるとともに、さかのぼってそれ以前の即位礼の日付も正月が与えられたのではないか、とされる。 それ以前の即位礼は大嘗祭と一体をなしており、大嘗祭が冬至の日(太陽太陰暦で11月頃)に行われた翌日、新帝が祭で天照大神の霊威を得てから群臣の前に姿を現す形式であったとされる。この時点では、神祇伯が天神寿詞を奏上し、神器が献上されることにより皇位継承を内外に宣明した。 その後、即位礼の時期が正月に繰り上げられ、大嘗祭に先んじておこなわれるようになった。記紀の記述によっても詳細な儀式次第は明らかでないが、まずはじめに神器が授受され、即日または後日、改めて「壇」に昇る式が行われた。 儀式次第が詳細に記録された最初は朱鳥4年正月1日(690年2月14日)の持統天皇の即位礼である。この時は、以下の式次第である。 石上麻呂が大盾を樹てる。 神祇伯の中臣大島が天神寿詞を詠む。 忌部色夫知が神器の天叢雲剣と八咫鏡を奉った。 公卿百寮が羅列して八開手を打ち、拝礼する。 この時点では天神寿詞は大嘗祭と併せて2度詠まれていた。「養老律令」(720年)においても 凡そ践祚の日、中臣天神寿詞を奏し、忌部神璽の鏡剣を上る。 とあり、寿詞の次に神器授受が行われていたことがわかる。 神器の授受は「剣璽渡御の儀」として即位式の前(皇位継承直後)に行われることがあったが、天応元年(781年)の桓武天皇の皇位継承に際し、「即位」から日を置いて「大極殿に御して詔して」とあることから、事実上の践祚と即位の分離が行われるようになった。さらに延長8年(930年)の朱雀天皇の皇位継承に際して、明示的に「践祚」と「即位」が分離されるに至る。 「貞観儀式」(870年代)「江家次第」(11世紀)において、即位礼の式次第が以下の通り明示された。 天皇は高御座で杓を把って南面する。 命婦が御帳をかかげ、香をたく。 王公百官の拝舞、舞踏、拝舞、武官による万歳三唱 ここでは養老律令に定められていた剣璽渡御および天神寿詞が取り除かれ、また天子南面、礼服を着用するなど、大陸様式を取り入れた式次第になった。 ところが、平安時代中期になると、早くもこの形が崩れ、殿上の擬侍従(平安初期には親王がつとめたので上首を親王代とよび、次席と少納言の3人の構成で左右計6人)に内弁(上卿に相当)・外弁(一般参列者の公卿であるが、指名された者のみが立つ。殿上人以下の参列はなくなった。なお外弁の内の一人が宣命使となる。中世から近世にかけて外弁は大納言・中納言・参議各2名というのが一般的であった。)・典儀などの限られた公卿・官人しか即位式に参加せず、その役目を持たない公卿は大臣であっても、高御座の左右に設けられた幔の内側から「見物」している有様であった。 1016年(長和5年)2月7日に行われた後一条天皇の即位式の様子は、当時の朝廷の重鎮であった大納言・藤原実資の日記『小右記』に詳しく記されているが、それは実資が即位式の参加者ではなく、見物者として観察出来たことによるものであった。なお、摂政は平安時代後期(堀河天皇以後)以後には高御座の中層または下層、関白は高御座の後方東側(南側から見て右寄り)の北廂東幔内に束帯姿で(礼服でないのは正式な参列でないから)控える例であった(後一条天皇の摂政であった藤原道長もこの位置にいるため、初期の摂政も同様であった可能性が高い)。 儀典の会場は、平安時代を通じ、原則的に、朝堂院(八省院)の大極殿が用いられたが、大極殿焼損のため陽成天皇は豐楽殿を使用した。病気のため冷泉天皇は内裏の紫宸殿で即位し、大極殿焼失のため後三条天皇は太政官庁、安徳天皇は内裏の紫宸殿を用いた。大極殿は1176年(安元2年)の安元の大火以降廃絶したため、鎌倉時代より室町時代中期の後土御門天皇までのすべての天皇(ただし、京都にいなかった南朝の後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇は例外)は、太政官庁を使用した。後柏原天皇以降は太政官庁は再建されず、里内裏の紫宸殿を使用することとなり、明治天皇に至るまでこの場所で行われた。 中世以降(初例は後三条天皇とされているが、恒例となったのは後深草天皇以後とされる)には、即位灌頂と呼ばれる仏教様式の儀式も執り行われた。江戸時代後期まで、その様式は続けられた。 即位式は皇室行事の中でも最も重要な儀式の一つであるが、戦国時代の後柏原天皇の時期は皇室財政が逼迫しており、1500年(明応9年)に即位したにも拘らず、儀式を行えず、1521年(大永元年)、室町幕府などからの援助を元に、即位22年目にして即位礼を行った。直接のきっかけは幕府が二万疋を献じたことであるが、実際には文亀年間以来それまでに何度か幕府から献じられていた費用および、朝廷が本願寺などからの献金を得て準備した道具が蓄積しており、その費用だけで実施できたのではない。後奈良天皇は後柏原天皇即位の所用品が多く残されていたにもかかわらず、やはり費用不足で十年ほど即位が延引した。また、正親町天皇の時も皇室財政から即位礼費用の拠出は叶わず、毛利元就の援助を得て挙行した。しかし、多くの困難にもかかわらず、承久の乱のため短期間しか在位できなかった九条廃帝を除き、一代も欠かさずこの儀式は挙行されている。 なお、宮廷儀礼は平安時代より雑人(庶民)の見物の対象であったが、承久の乱後の四条天皇即位では庭上にも見物人が乱入し、これ以後も公家日記に、見物人のため儀式に支障をきたしていたことがうかがわれる記事が散見される。後柏原天皇即位に際しても「雲霞の如く」見物人が集まったという。こうした伝統を受けて江戸時代には、切手札(観覧券のようなもの)を買うことで、一般庶民も京都御所での即位の儀式を見ることができた事が最近の研究により判明している。なお、後桜町天皇即位のとき、儀礼の役にあたらず、ただ出御した天皇のお見送りだけに参内した野宮定晴は、「武家奴隷(武士の下人)」や「雑人」が多くて一般の公家の多くが儀式を見物できなかったこと、にもかかわらず幕府の使者は非公式ながら紫宸殿に上げてもらって見物できたことに憤慨している。 明治維新以降は旧皇室典範並びに登極令の制定により、天皇の践祚・即位に関わる一連の儀式の様式が定められた。御大礼(即位の礼)は引き続き京都で行われることとされ、大正天皇・昭和天皇の御大礼は引き続き京都御所において挙行され、「即位礼紫宸殿の儀」と称した。1947年(昭和22年)制定の現行の皇室典範では場所については規定されず、平成、令和の即位の礼は東京・皇居で行われた。式次第については旧例が踏襲されたが、従来「紫宸殿の儀」と称していた儀式が「正殿の儀」となった。 儀式は皇室の祖神である天照大神と歴代の天皇へ期日を奉告することに始まり、皇居内の三殿への報告と、伊勢神宮へ勅使が遣わせられる。時期は登極令により春から秋とされ、先帝の崩御から1年間は服喪期間として即位の礼・大嘗祭は行われない。なお、この服喪期間を特に「諒闇」という。 即位の礼では最重要の儀式が「正殿の儀」であり、天皇は束帯、皇后は十二単に身を包む。天皇の束帯は「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」と言い、天皇以外は着用できない。正殿の儀にて使用される玉座は天皇のものを高御座(たかみくら)、皇后のものを御帳台(みちょうだい)と呼ぶ。造りは三層黒塗り継檀の上に八角形の屋根を置き、鳳凰・鏡等の装飾がある。高さ5.9メートル、幅6メートル、重さ8トンに及ぶ。
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