即位の礼の変遷とは? わかりやすく解説

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即位の礼の変遷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 03:36 UTC 版)

即位の礼」の記事における「即位の礼の変遷」の解説

記紀記される記録限りでは、即位礼元日行われていたが、これは推古天皇時代に隋帝国から暦法輸入されたときに、大陸歴代帝室の例に倣って正月即位取り入れられるとともにさかのぼってそれ以前即位礼日付正月与えられたのではないかとされるそれ以前即位礼大嘗祭と一体をなしており、大嘗祭冬至の日(太陽太陰暦11月頃)に行われた翌日新帝が祭で天照大神霊威得てから群臣前に姿を現す形式であったとされる。この時点では、神祇伯天神寿詞奏上し神器献上されることにより皇位継承内外宣明した。 その後即位礼時期正月繰り上げられ大嘗祭先んじておこなわれるようになった記紀の記述によっても詳細な儀式次第明らかでないが、まずはじめに神器授受され、即日または後日改めて「壇」に昇るが行われた。 儀式次第詳細に記録され最初朱鳥4年正月1日690年2月14日)の持統天皇即位礼である。この時は、以下の式次第である。 石上麻呂大盾てる。 神祇伯中臣大島天神寿詞詠む忌部色夫知神器天叢雲剣八咫鏡奉った公卿百寮が羅列して八開手打ち拝礼する。 この時点では天神寿詞大嘗祭併せて2度詠まれていた。「養老律令」(720年)においても 凡そ践祚の日、中臣天神寿詞奏し忌部神璽の鏡剣を上る。 とあり、寿詞次に神器授受が行われていたことがわかる。 神器授受は「剣璽渡御の儀」として即位式の前(皇位継承直後)に行われることがあったが、天応元年781年)の桓武天皇皇位継承際し、「即位」から日を置いて大極殿御して詔して」とあることから、事実上践祚即位分離が行われるようになった。さらに延長8年930年)の朱雀天皇皇位継承に際して明示的に践祚」と「即位」が分離されるに至る。 「貞観儀式」(870年代)「江家次第」(11世紀)において、即位礼式次第以下の通り明示された。 天皇高御座を把って南面する。 命婦御帳をかかげ、香をたく。 王公百官拝舞舞踏拝舞武官による万歳三唱 ここでは養老律令定められていた剣璽渡御および天神寿詞取り除かれ、また天子南面礼服着用するなど、大陸様式取り入れた式次第になった。 ところが、平安時代中期になると、早くもこの形が崩れ殿上擬侍従平安初期には親王つとめたので上首親王代とよび、次席少納言の3人の構成左右計6人)に内弁上卿に相当)・外弁一般参列者の公卿であるが、指名された者のみが立つ。殿上人以下の参列なくなった。なお外弁内の一人宣命使となる。中世から近世にかけて外弁大納言中納言参議各2名というのが一般的であった。)・典儀などの限られた公卿官人しか即位式参加せず、その役目持たない公卿大臣であっても高御座左右に設けられた幔の内側から「見物」している有様であった1016年長和5年2月7日行われた後一条天皇即位式様子は、当時朝廷重鎮であった大納言藤原実資日記小右記』に詳しく記されているが、それは実資が即位式参加者ではなく見物者として観察出来たことによるものであった。なお、摂政平安時代後期堀河天皇以後以後には高御座中層または下層関白高御座後方東側南側から見て右寄り)の北廂東幔内に束帯姿で(礼服でないのは正式な参列でないから)控える例であった後一条天皇摂政であった藤原道長この位置にいるため、初期摂政も同様であった可能性が高い)。 儀典会場は、平安時代通じ原則的に朝堂院八省院)の大極殿用いられたが、大極殿焼損のため陽成天皇豐楽殿使用した病気のため冷泉天皇内裏紫宸殿即位し大極殿焼失のため後三条天皇太政官庁安徳天皇内裏紫宸殿用いた大極殿1176年安元2年)の安元の大火以降廃絶したため、鎌倉時代より室町時代中期後土御門天皇までのすべての天皇(ただし、京都にいなかった南朝後村上天皇長慶天皇後亀山天皇例外)は、太政官庁使用した後柏原天皇以降太政官庁再建されず、里内裏紫宸殿使用することとなり、明治天皇に至るまでこの場所で行われた中世以降(初例は後三条天皇とされているが、恒例となったのは後深草天皇以後とされる)には、即位灌頂呼ばれる仏教様式儀式執り行われた。江戸時代後期まで、その様式は続けられた。 即位式皇室行事中でも最も重要な儀式一つであるが、戦国時代後柏原天皇時期皇室財政逼迫しており、1500年明応9年)に即位したにも拘らず儀式行えず、1521年大永元年)、室町幕府などからの援助元に即位22年目にして即位礼行った直接きっかけ幕府が二疋を献じたことであるが、実際に文亀年間以来それまで何度幕府から献じられていた費用および、朝廷本願寺などからの献金得て準備した道具蓄積しており、その費用だけで実施できたのではない。後奈良天皇後柏原天皇即位所用品が多く残されていたにもかかわらず、やはり費用不足で十年ほど即位延引した。また、正親町天皇の時も皇室財政から即位礼費用拠出は叶わず、毛利元就援助得て挙行した。しかし、多く困難にかかわらず承久の乱のため短期間しか在位できなかった九条廃帝除き一代欠かさずこの儀式挙行されている。 なお、宮廷儀礼平安時代より雑人(庶民)の見物対象であったが、承久の乱後の四条天皇即位では庭上にも見物人乱入し、これ以後公家日記に、見物人のため儀式支障きたしていたことがうかがわれる記事散見される後柏原天皇即位に際しても「雲霞如く見物人集まったという。こうした伝統受けて江戸時代には、切手観覧のようなもの)を買うことで、一般庶民京都御所での即位儀式を見ることができた事が最近の研究により判明している。なお、後桜町天皇即位のとき、儀礼の役にあたらず、ただ出御した天皇お見送りだけに参内し野宮定晴は、「武家奴隷(武士の下人)」や「雑人」が多くて一般公家多く儀式見物できなかったこと、にもかかわらず幕府使者非公式ながら紫宸殿上げてもらって見物できたことに憤慨している。 明治維新以降旧皇室典範並びに登極令制定により、天皇践祚・即位関わる一連の儀式様式定められた。御大礼即位の礼)は引き続き京都行われることとされ、大正天皇昭和天皇御大礼引き続き京都御所において挙行され、「即位礼紫宸殿の儀」と称した1947年昭和22年制定現行の皇室典範では場所について規定されず、平成令和の即位の礼東京皇居行われた式次第については旧例踏襲されたが、従来紫宸殿の儀」と称していた儀式が「正殿の儀」となった儀式皇室祖神である天照大神歴代天皇期日奉告することに始まり皇居内の三殿への報告と、伊勢神宮勅使遣わせられる。時期登極令により春から秋とされ、先帝崩御から1年間服喪期間として即位の礼大嘗祭行われない。なお、この服喪期間を特に「諒闇」という。 即位の礼では最重要儀式が「正殿の儀」であり、天皇束帯皇后十二単に身を包む。天皇束帯は「黄櫨染御袍こうろぜんのごほう)」と言い天皇以外は着用できない正殿の儀にて使用される玉座天皇のものを高御座たかみくら)、皇后のものを御帳台みちょうだい)と呼ぶ。造り三層黒塗りの上八角形屋根を置き、鳳凰・鏡等の装飾がある。高さ5.9メートル、幅6メートル重さ8トンに及ぶ。

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