紫宸殿
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紫宸殿(ししんでん、ししいでん)は、内裏の正殿。天皇元服や立太子礼、譲国の儀、節会などの儀式が行われ、のちには即位礼の舞台となった。「南殿」や「前殿」、古くは「紫震殿」とも。
- ^ 『古事談』に「南殿桜樹者本是梅樹也。桓武天皇遷都之時所被植。而及承和年中枯失。仍仁明天皇被改植也。」とあり、他の文献等も勘案してこの「改植」が桜への植え替えだと推定される。
- ^ 久水俊和「内野の太政官庁」『中世天皇家の作法と律令制の残像』八木書店、2020年 ISBN 978-4-8406-2239-4 pp.283-311。
紫宸殿
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「紫宸殿」も参照 高御座(左)と御帳台(右) 御所敷地の南寄りに南面して建つ、かつての内裏の正殿である。天皇の即位、元服、立太子、節会など、最重要の公的儀式が執り行われた建物である。屋根は入母屋造、檜皮葺き。桁行(間口)9間、梁間(奥行)3間の身舎(もや、「母屋」とも書く)の東西南北に廂をめぐらし、その外に簀子縁(すのこえん)をめぐらす(ここで言う「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する。以下同じ)。平面規模は簀子縁を除いて、間口が33メートル余、奥行が23メートル弱である。梁間の3間は等間ではなく、奥(北)の1間のみ柱間がごく狭くなっている。簀子縁の周囲には高欄をめぐらし、建物正面には18段の階段を設ける。身舎内は間仕切りを設けず広い1室とし、柱は円柱、床は畳を敷かず拭板敷(ぬぐいいたじき)とし、天井板を張らない化粧屋根裏とする。正面の柱間装置は蔀(しとみ)とする。なお、京都御所の紫宸殿と清涼殿では、通常「蔀」と呼ばれる柱間装置のことを伝統的呼称で「御格子」(みこうし)と呼んでいる。 以上のように、この建物は江戸時代末期の再建でありながら、柱をすべて円柱とする点、柱間装置に蔀を用い、これを建物の内側へ跳ね上げる点、内部に畳を敷かず、板敷の広い室とする点など、復古的な建物で、様式は平安時代の寝殿造を基調としている。寝殿造は、奈良時代に伝来した中国・唐の建築様式を源流としつつ、淡泊な美を愛でる傾向の強い日本人の感性に合った、簡素な様式に変化を遂げたものである。紫宸殿や清涼殿は、内裏の中心的建物でありながら、華美な装飾や威圧的な構えがなく、柱などの部材は素木仕上げ、蔀(御格子)の桟は黒塗りである。ただし、長押、蔀、高欄などの要所に打たれた飾金具を朱漆塗とし、正面階段の木口を白塗として、簡素ななかにも色彩の変化を見せている。身舎内には、中央に天皇の座である高御座、その向かって右に皇后の座である御帳台(みちょうだい)がある。現在の高御座および御帳台は、大正4年(1915年)、大正天皇の即位大礼に際して造られたものである。紫宸殿の南正面は一面に白砂を敷き詰めた南庭で、建物正面左右には左近の桜と右近の橘がある。南庭は回廊で方形に囲まれ、回廊の南正面に承明門、東面に日華門、西面に月華門がある。これらの門以外に、回廊には4か所に掖門(えきもん)がある。承明門の東と西の掖門をそれぞれ長楽門、永安門、日華門の南と月華門の南にあるのをそれぞれ左掖門(さえきもん)、右掖門(うえきもん)という。紫宸殿が檜皮葺で素木仕上げであるのに対し、回廊やそこに開かれた門は瓦葺で、軸部や扉を朱塗とする。承明門の南は御所の正門である建礼門である。 京都御所の建物は近世を通じてたびたび焼失と再建を繰り返しているが、紫宸殿と清涼殿が平安時代風の復古的な様式で再建されたのは、寛政度造営の時であり、次の安政度造営でもそれが踏襲された。寛政度の造営の奉行(総責任者)を務めたのは老中松平定信である。当時の日本は幕府の財政難と作物の凶作に苦しんでおり、平安時代風の復古様式での再建には費用がかさむことなどから、定信は当初は反対の立場であったが、結局、紫宸殿と清涼殿に限って古い様式で再建することとした。寝殿造様式の再現には公家で故実家の裏松光世(裏松固禅)の意見を取り入れたというのが通説となっている。その結果、平面構成、建具、円柱、板敷の床などは平安時代のものが再現されているが、屋根構造までは再現できず、屋根の形や構造は江戸時代の大工の技法による近世風のものになっている。紫宸殿の屋根は大きく、勾配が急であり、上部の切妻部分と、下部の寄棟部分との間に段差を設けて葺いた錣葺(しころぶき)になっている。平安時代の寝殿造建物にはこのように大きく急勾配の屋根はなかった。また、紫宸殿の軒を支える複雑な組物は寺院建築に使われる様式で、寝殿造とは異なっている。柱の基部に用いられている礎盤も中世以降の禅宗様建築で用いられた形式である。しかしながら、現代のような建築史学の発達していなかった江戸時代に、文献調査のみから平安時代の様式を再現したことは高く評価されている。 紫宸殿の身舎部分には間仕切りがなく、身舎と東廂および南廂との境にも間仕切りはないが、西廂および北廂との境は壁で仕切られ、後者には著名な賢聖障子がある。賢聖障子とは、紫宸殿の高御座の背後、身舎と北廂との境の障壁のことで、中国の伝説時代から古代に至る忠臣功臣のなかから選ばれた32名の人物の肖像を描くことからこの名がある。これらの肖像は、天子の御座所を飾るにふさわしい画題と考えられたもので、平安時代初期から描き継がれている由緒ある画題である。身舎と北廂の境の柱間は9間であるが、うち中央の間は扉になっていて、獅子・狛犬・負文亀を描き、残り8つの柱間に各4人ずつ計32人の人物が立ち姿で描かれる。この障子絵は取り外し可能であったため、嘉永7年(1854年)の火災時には持ち出されて難をのがれ、安政度再建に際しては、上述の火災に焼け残った寛政度作成の障子絵が修理のうえ再用された。現存する賢聖障子の絵は、寛政度に住吉弘行が描いたものを住吉弘貫が修繕し、各絵の上部の色紙形の字は岡本保孝の筆になる。建物の正面中央に掲げられた「紫宸殿」の扁額も寛政度造営時のものを再用しており、文字は賢聖障子の色紙形と同じく岡本保孝の筆である。
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