紫宸殿南庭と清涼殿東庭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 09:12 UTC 版)
右近の橘 左近の桜 京都御所では、建物が表向きの儀式用のものと、内向きの居住用のものに分かれているのと同様、庭園も儀式用の部分と内向きの部分ではその様相をまったく異にしている。 紫宸殿の南の庭は南庭と称し、一面に白砂を敷いただけの空間である。ここは単なる空地ではなく、紫宸殿の建物と一体となった、儀式のための空間であった。紫宸殿の前には「左近の桜」と「右近の橘」がある(「左」「右」は天皇から見てのそれであり、東が桜、西が橘である)。桜と橘はそれぞれ花木と果樹を代表するものである。ただし、左近の桜は平安遷都時には桜ではなく梅であった。これが桜に変わったのは仁明天皇の時である。『万葉集』の時代には、日本の花木の代表は梅であったが、平安時代になって人々の好みが変わって、桜が代表的な花とされるようになった。梅から桜への変更はそれを反映したものである。左近の桜は1855年(安政年間)、1930年(昭和5年)、1998年(平成10年)に植え替えられており、当代のものはオオシマザクラの特徴を一部持ったヤマザクラ系の桜である。右近の橘は安政6年(1859年)に植えられた記録が確認されている。 清涼殿の正面(東)の庭は東庭と称し、やはり一面に白砂を敷いただけの空間である。ただし、2か所に竹の植込みがある。建物の南端近く、広廂にほど近い場所に植えられているのが漢竹(からたけ)、それより北方、建物から数メートル離れたところに植えられているのが呉竹(くれたけ)である。漢竹はメダケであり、呉竹はハチクのこととされるが、現在植わっているのはホテイチクである。『枕草紙』には呉竹が、『徒然草』には漢竹と呉竹が登場する。漢竹と呉竹は、現状では広い庭の西寄りに偏った位置にあるが、平安時代の内裏では、清涼殿の東側には別の建物(仁寿殿)があり、東庭は今より狭かった。 清涼殿の東側、弘廂に沿って南北に流れる石敷きの水流を「御溝水」(みかわみず)という。御溝水の北寄りには高さ20センチほどの落差がつくられており、これを「滝口」という。「滝口武者」という呼称はこれに由来する。
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