左近の桜、右近の橘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 06:23 UTC 版)
前日の雪の残る27日辰の刻(午前8時頃)、平家軍が六波羅を出撃した。上皇と天皇を奪われた信頼の迂闊さを呪いつつも義朝はまずは内裏で敵を迎え撃つこととし、諸門に軍勢を配す。義平も弟の朝長・頼朝とともに守りについた。(金毘羅系)『平治物語』によるとこの時、義平は19歳、八龍の鎧を着、石切の太刀を帯び、葦毛の馬に乗り敵を待ち構えた、とある。 待賢門は藤原信頼が守っていたが、そこへ清盛の嫡男・平重盛が攻め寄せ、怯えた信頼は戦わずに逃げ出し、門を突破されてしまった。義朝は「大臆病者が、もう待賢門を破られてしまったぞ。敵を追い返せ」と出撃を命じた。「承知」と叫ぶや義平は鎌田政清・後藤実基・佐々木秀義・三浦義澄・首藤俊通・斎藤実盛・岡部忠澄・猪俣範綱・熊谷直実・波多野延景・平山季重・金子家忠・足立遠元・上総広常・関時員・片切景重の坂東武者17騎を率いて駈け出した。義平と坂東武者17騎は重盛の500騎のど真ん中に飛び込んで散々に戦い、これを蹴散らしてしまった。義平は重盛に組みかかろうと内裏の左近の桜、右近の橘の間を7、8度も追い回した。重盛は混乱した兵を収拾して一旦退き、新手の500騎を得て再び門内に押し出した(この左近の桜・右近の橘の場面は『平治物語』の一つのハイライトであるが、乱当時の内裏は実際にはこのような造りをしておらず、鎌倉時代中期以降の内裏のつくりがそのまま持ち込まれている。よって橘桜の場面も『平治物語』の虚構であるとも見方も提示されている)。 新手を受けた義平は勇みに勇んで突撃し、重盛に向い「嫡男同士なんの不足があろうか、さあ組もう」と挑みかかる。まともに相手にすべき敵ではないと考えた重盛は兵を退かせた。それを義平が追撃。平家の500騎は源氏の17騎に追い回され蹴散らされた。 重盛は主従3騎で逃げるが、それを見つけた義平は鎌田政清とともにこれを追った。政清は重盛の馬を射て、重盛は転げ落ちる。そこへ政清が組みかかろうとするが、与三左衛門景安が主人を守り、政清と組み合いになった。義平は重盛を追うか、政清を助けるかを思案し、まずは大切な家人の政清を助け、景安の首をはねた。覚悟を決めた重盛は義平と一騎討ちしようとするが、新藤左衛門家泰がこれを遮り、義平に組みかかった。家泰は討たれたが、その間に重盛はその虎口を逃れた。
※この「左近の桜、右近の橘」の解説は、「源義平」の解説の一部です。
「左近の桜、右近の橘」を含む「源義平」の記事については、「源義平」の概要を参照ください。
- 左近の桜、右近の橘のページへのリンク