片切景重
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片切 景重(かたぎり かげしげ、生年不詳 - 平治元年12月27日(1160年2月6日))は、平安時代末期の武将。兵庫助片切源太為行の子。信濃守源為公の曾孫にあたる。兄弟に弥太郎為重、二郎大夫為綱、三郎大夫行実、四郎禅門行心、七郎為遠、大嶋八郎宗綱らがあり、養子に従孫の片切為康[1]。実子は名子氏を称した。信濃国伊那郡片切郷を本拠とする豪族・片切氏の将。仮名は小八郎大夫。名子大夫。
- ^ 『吾妻鏡』には「為安」とあるが、『尊卑分脈』には、「為康」、長野県立歴史館蔵の片切氏系図(片切源祐筆)にも「為康」とある。片切氏の子孫には「康」の通字が続いていることから「安」は誤記である。
- ^ 『吾妻鏡』治承4年(1180年)12月19日条
- ^ 『尊卑分脈』
- ^ ここでの「大将軍」は重盛。彼の率いる500余騎は瞬く間に藤原信頼の手勢を蹴散らすが、信頼のふがいなさに激怒した義朝は義平を戦場に投入する。「大庭」は内裏の庭。「左近の櫻、右近の橘」はこの頃にはなかったというのが定説
- ^ 『平治物語』の異本の中には小八郎の討ち死にを記さない本もある。
- ^ 錣は兜の下部から垂れて首を保護する部分のことであるが、小八郎はまず敵の首を露出させた上で接近し小太刀を突き刺した、と読むのが正しいようである。この細かい戦闘の描写は甲冑武者同士の戦いの現実について示唆することが多いと言えよう
- ^ 注1に同じ。
- ^ 左馬頭の漢名。ここでは義朝のこと。憐愍(れんみん)は憐憫とは違い「感情をこめる、共感する」という程の意
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