片切城とは? わかりやすく解説

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片切城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/27 09:12 UTC 版)

片切城(かたぎりじょう)は信濃国伊奈郡、現在の長野県上伊那郡中川村下伊那郡松川町にあった日本の城である。別名舟山城、船山城。長野県指定史跡

概要

中世に信濃源氏片切氏により築城された。天竜川の右岸、西から東方向に半島状に張り出した河岸段丘先端(比高70m)に築かれた伊那地方に類例の多い連郭式平山城で、外城(出丸)と呼ぶ舟山一帯の郭と、中世後期に築かれたと考えられる城畑一帯の本城の二つがある。本城には大規模な主郭、二の郭から成り、外城には大小四つの郭が設けられている。城内の北西隅には守護神の御射山社(諏方社末社)を祀り、城外に接して瑞応寺(元は宝珠院)がある。別名の舟山城の名は、東方の丘陵がいかにも舟を山上に伏せたように見えることから、このように呼ばれるようになったという。

戦国時代の当主・片切源七郎昌為[1]小笠原氏の後、甲斐の武田信玄勝頼に仕え、大嶋長利・赤須頼泰・上穂為光・飯嶋為方と共に伊奈郡代・秋山伯耆守虎繁同心であり、「春近五人衆」(五十騎)といわれた。天正10年(1582年)2月の織田信長による甲州征伐に際し織田信忠が信濃に侵攻すると、地元の地下人らが片切城に放火し戦わず落城。城主の片切意釣斎西鎌は逃亡するも同年に帰郷。西鎌、源三昌忠は大草城主・大草休斎(香坂宗緑)に属するも、天正年中に浪人となり、廃城となった。

現在、城畑一帯は果樹園となっている。

脚注

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  1. ^ 『峡中家歴鑑』には、「信濃国伊奈郡片切城主片切源七昌為」と記される。

参考文献

  • 宮下玄覇「春近五人衆 片切昌為の動静」『伊那路』第62巻9号

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