文献調査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 05:13 UTC 版)
明治時代には歴史地理学者吉田東伍による研究があり、『日本三代実録』にある「城郭」は陸奥国府・多賀城(北緯38度18分23.8秒 東経140度59分18.1秒 / 北緯38.306611度 東経140.988361度 / 38.306611; 140.988361 (陸奥国府・多賀城 政庁跡))を指すと考え、広大な範囲の浸水は津波であり、震源は太平洋側の沖合いにあるものと推定している。また、小倉百人一首には、清原元輔の詠んだ次のような歌が登場する。 「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは」(『後拾遺和歌集』恋四)現代語訳:約束しましたよね。涙を流しながら。末の松山が浪を決してかぶることがないように2人の愛も変わらないと。それなのに この歌についても、宮城県多賀城市八幡の丘陵にある「末の松山」(北緯38度17分15.8秒 東経141度0分12.1秒 / 北緯38.287722度 東経141.003361度 / 38.287722; 141.003361 (末の松山))であり、「津波がこの末の松山を越えそうで越えなかった」という状況を示すものと考証している。東北地方太平洋沖地震の津波もまた末の松山の麓まで浸水させた(「沖の石」(北緯38度17分12.6秒 東経141度0分12秒 / 北緯38.286833度 東経141.00333度 / 38.286833; 141.00333 (沖の石))も浸水した)が、この丘を超えることはついになかった。末の松山の老松二本は「鍋かけの松」とも言われ、この津波のときに流れた鍋がかかっていたからと伝えている。関連して「小佐治と猩々ヶ池」伝承がある。もっとも古い採録は1907年舟山万年著『塩松勝譜』であるが、わずかずつ異なる伝承がいくつか残されている。大略は多賀城八幡の居酒屋の娘小佐治(こさじ)のもとに猩々(海から現れる異形の生き物。赤毛)が通うようになり、やがて猩々は村の者に殺されることを察知し、小佐治に屍は池(八幡村上屋敷とも中谷地とも)に捨てて欲しい、それから6日後に大津波が来るので末の松山に逃げろと言い残す。その言葉のとおり、猩々は殺され、やがて八幡上千軒・下千軒は大津波に呑み込まれ、小佐治(別伝では、小佐治とその両親)だけが助かった。 今村明恒も、貞観地震と慶長三陸地震は東北地方太平洋沿岸に特に巨大な津波をもたらし、その規模は明治三陸地震を凌ぎ、いずれも日本の地震の活動期に発生したものであることを説いている。特に三陸海岸は世界的な津波常襲地であるにもかかわらず、有史以来、慶長年間に至るまでの約1200年間で、貞観地震の津波記録が唯一のものであることに着目し、この津波がいかに激烈・絶群なものであったか想像に難くないと述べている。 1995年には飯沼勇義は宮城県名取市の神社に伝わる貞観年間の疫病の流行により庶民が大いに苦しんだとする伝承と貞観津波との関連を指摘し、今後も津波に襲われる危険性を訴えた。 この津波に関する伝説・伝承は25例が確認され、宮城県気仙沼市から茨城県大洋村(現・鉾田市)にかけて分布している。これをもとに宮城県 - 茨城県沖の日本海溝沿いに長さ230キロ、幅50キロの断層モデルが仮定され、M8.5が推定されていた。一方、三陸地方に津波伝承が残らない理由として、そもそも津波が頻繁に次から次へと襲う津波常襲地には津波伝承は生まれにくいことと、文字を持たない蝦夷の伝承がのちの住民へと語り継がれたかどうかは疑問が残り、伝説・伝承が残らない三陸地方がただちに被災しなかったことを意味するものではない。その後の研究で、特に砂押川下流域の多賀城市旧八幡村のみならず、旧市川村・旧南宮村から利府町旧加瀬村にかけての砂押川中流域にも、大津波に関わる漂着伝承が残されていることが明らかにされている。 10月13日の詔中の文言「陸奥国境、地震尤甚、或海水暴溢而為患」の「陸奥国境」とは、「陸奥国の境の内」の意味であって陸奥国中の広い範囲でもっとも甚だしく被害が出るほどであったと解釈され、12月14日の伊勢神宮告文中の「陸奥国又異常奈留地震之灾言上多利。自餘国々毛、又頗有件灾止言上多利」の記述は、被災が陸奥国に留まらず、隣国すなわち常陸国も同様であることを報告したとも読め、広い範囲におよぶものであったと解釈される。
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