文献資料による記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/10 02:02 UTC 版)
『古事記』仁徳天皇の段に「丸爾池」を作るとあり、『日本書紀』仁徳天皇13年10月条に「和珥池」築造が述べられている。また、『日本書紀』推古天皇21年11月条にも「和珥池」を作るとある。 伴林光平は『河内国上古水土考』において、喜志村の和爾池を仁徳の御世につくるという伝承を載せた。丸爾池について、次田潤は『古事記新講』の注釈において、比定地として河内国石川郡喜志村と大和国添上郡帯解村大字池田を上げた。栄原永遠男は『狭山池総合学術調査報告書』において、仁徳期・推古期ともに「和珥池(大和)」とし大和説に立つ。北野耕平は『富田林市史』において、書紀における仁徳期の和珥池築造の前後に河内・摂津関係の記事があることから、和珥池が河内にあった可能性があるとし、近世資料に記載された喜志村の和爾池が該当するかもしれないと述べた。『日本歴史地名大系』は推古期の和珥池を前述の大和国添上郡帯解村大字池田の光大寺池とするが、仁徳期の和珥池は定説がないとする。 近世の地誌では、『河内志』とそれを引いた『河内名所図絵』は「和爾池」を載せ喜志村にありとし、書紀の仁徳天皇13年10月条を引用する。また、粟ヶ池の西側に位置する美具久留御魂神社について、「喜志村和爾ノ池の西にあり、一名、和爾神社」とする。『日本歴史地名大系』は、和珥池が河内にあった根拠は明らかでないとしながらも、美具久留御魂神社の別名を和爾神社とする河内志の記述は捨てがたいとする。 『西国三十三ヶ所名所図絵』は新堂村の粟ヶ池と喜志村の和爾池を分けて載せ、粟ヶ池については聖武天皇の治世に掘られたという伝承を記す。『大阪府誌』は「和珥池附粟ヶ池」として、仁徳期の和珥池の所在は明らかでないとしながらも、美具久留御魂神を和爾神と称することから、喜志村の粟ヶ池に該当する可能性を述べる。また、粟ヶ池と和爾池が堤防を挟んで隣接していたがいつしか堤防が崩れ一体の池となったとする伝承を記す。『河南郷土史読本』は、粟ヶ池の底にある高く盛り上がった部分を元の堤防とする。 近世の古文書としては、1769年(明和6年)の『喜志村明細帳』があり、粟ヶ池を含む溜池や、井堰、樋、立会の村々が記されている。
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