推古天皇とは? わかりやすく解説

すいこ‐てんのう〔‐テンワウ〕【推古天皇】

読み方:すいこてんのう

[554〜628]第33天皇在位593〜628。欽明天皇第3皇女。名は豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)。敏達天皇皇后となり、崇峻天皇蘇我馬子(そがのうまこ)に殺されたのちに即位聖徳太子摂政として国政行った


推古天皇

欽明天皇第三女で名を額田部皇女という。
576年敏達天皇(異母兄)の皇后広姫薨去にともないその後添えとなった
夫の敏達天皇疱瘡の病で崩御し、ついで皇位についた用明天皇もまた疱瘡の病で崩御したので、587年の頃、崇峻天皇用明天皇の後をついで皇位についた
しかし、592年蘇我馬子の命を受けた東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に崇峻天皇暗殺されてしまう。
この後皇位めぐって議論たたかわされ額田部皇女推挙されるに至ったが、額田部再三にわたり固辞したという。
しかし群臣の上奏が数度及んでついに皇位につき推古天皇となった
わが国初めての女帝の誕生である。
先例重視する日本にあって女帝誕生極めて異例のことだ。
多分私見だが聖徳太子強力な後押しもあったのだろう。
推古天皇は明日香豊浦に宮をもうけ、甥の厩戸皇子皇太子(この頃までは「皇太子」は制度として確立したものではなく通常大兄」という普通名詞として語られていたに過ぎなかった。
)にたて摂政(摂政の初例であるが、後の摂政異なり聖徳太子(厩戸皇子)の場合は天皇に代わり政治を行うのではなく、天皇の政治輔弼する意味をもった。
)に任じた
推古天皇は聖徳太子協力得て594年に「三宝興隆の詔」を発布し603年冠位十二階※」を定め604年憲法十七条※」を制定した
※印はいずれ聖徳太子よるものだが、とくに「冠位十二階の制」は従来の姓(カバネ)制度根本から変えるもので画期的なものとして評価が高い。
ただ本格的な官僚制度機構大化の改新まで待たねばならない
一方外交に目を転じると、597年百済王子阿佐来日して貢し、600年には新羅任那交戦し推古朝は兵を起こし任那救援した
隋書によれば600年倭王使者洛陽赴いたという。
これは「日本書紀」には書いてないが正確なものならば初の遣隋使となる。
602年来目皇子将軍として25千の兵を挙げ新羅を討つべく筑紫発向した。
しかし、来目陣中にて病没したので太子異母兄当麻皇子将軍にしたが当麻の妻が死んだので結局新羅征討中止となった
605年高句麗大興王は推古朝丈六仏像作るとの話を聞いて黄金320両を送ってきたという。
推古天皇は75歳没し生前厚葬嫌っていたので竹田皇子の陵の磯長山田陵合葬された。


推古天皇 磯長山田陵
(すいこてんのう しながのやまだのみささぎ)

御陵写真 陵印
代   数 :第33
天 皇 名 :推古天皇
すいこてんのう
御   父 欽明天皇
御   母 皇太夫人堅鹽媛
御 陵 名 磯長山田陵
(しながのやまだのみささぎ
陵   形 :方丘
所 在 地 大阪府南河内郡太子町大字山田
交通機関等 近鉄喜志」からバス御陵前下車  南へ0.2km
陵印保管場所 古市陵墓監区事務所

推古天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/07 23:56 UTC 版)

推古天皇(すいこてんのう、554年5月21日欽明天皇15年乙巳朔癸丑: 4月9日〉- 628年4月15日〈推古天皇36年3月7日[注 1][注 2])は、日本の第33代天皇(在位:593年1月15日崇峻天皇5年12月8日〉 - 628年4月15日〈推古天皇36年3月7日〉)。


注釈

  1. ^ 『古事記』では戊子年3月15日
  2. ^ 在位期間は特に推古時代と呼ばれる。
  3. ^ 神功皇后を含まない。また、飯豊青皇女執政したとして宮内庁では天皇と称される。
  4. ^ 『古事記』推古天皇段には「妹(いも)、豊御食炊屋比売(とよみけかしぎやひめ)命、小治田(をはりだ)宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、三十七歳(みそじまりななとせ)なりき。分注、戊子の年の三月十五日癸丑の日に崩りましき。)御陵は大野の岡の上にありしを、後に科長(しなが)の大木陵に遷しき」(『古事記』)とある。小治田宮奈良県高市郡
  5. ^ 現代では、学校教科書を始め聖徳太子ではなく厩戸皇子という表記が一般的に用いられる傾向にある。これは聖徳太子が非常に伝説化された存在であることに注意を向けるためであるが、馬厩戸皇子あるいは厩戸王という名前も、同時代において使用されていたことが実証されている名前ではなく、伝説的な存在としての聖徳太子に対して、そのモデルになった史実上の人物を指すことを特に意図して使用される名前である[1]
  6. ^ とよみけかしきやひめのみこと、豊御食炊屋姫尊という表記は『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命。炊屋姫尊とも。
  7. ^ 『日本書紀』敏達紀では、571年(欽明天皇32年)に異母兄の渟中倉太珠敷皇子(敏達天皇)の妃となり、575年(敏達天皇4年)11月の皇后広姫崩御を承け、576年4月23日(敏達天皇5年3月10日)、皇后に立てられた。「敏達14年8月乙酉朔己亥(『古事記』分注では「甲辰年四月六日崩」)」(8月15日
  8. ^ 『古事記』の記録では敏達天皇と額田部の間の子は次の8名である。静貝王(別名、貝蛸王)、竹田王(別名、小貝王)、小治田王(おはりだ)、葛城王、宇毛理王、小張王(おはり)、多米王、桜井玄王(さくらいのゆみはり)[10]
  9. ^ 古代において天皇崩御後の誄の奏上は複数回にわたって行われていた[15]
  10. ^ 用明2年4月乙巳朔癸丑(4月9日)
  11. ^ 癸卯朔乙巳(旧暦11月3日)(592年12月12日)
  12. ^ ただし、神功皇后飯豊青皇女を歴代から除外した場合。
  13. ^ 荒木敏夫のまとめによれば、古代日本の皇太子をどのように理解するかについての先駆的な研究は本居宣長によるものである。宣長は『古事記伝』において日本の太子(ヒツギノミコ)は中国のそれとは異なり、複数存在していた例があることを指摘し、様々な要素を勘案しつつ天皇の「大御心」に適う者が太子となったと指摘した。20世紀前半には家永三郎の研究がその後の皇太子研究の基礎となったが、その中で家永は本居宣長の理解をヒツギノミコ理解も継承しつつ、日本における立太子の初例として聖徳太子(厩戸皇子)の立太子を位置づけ、また聖徳太子の摂政就任が、後世の摂関政治大日本帝国憲法皇室典範の規定するような法的根拠を持ったものではなく、太子が「万機を摂行する」というのが当時の「習俗」であり、摂政とは皇太子の地位が持つ属性の一つであったと論じた。第二次世界大戦後、井上光貞は中国の影響と皇室への権力集中の中で皇太子制度の前段階として古来の慣習法としての継承制度である大兄制を見出し、聖徳太子の立太子を次の天皇たる皇嗣であると同時に統治権の代行者でもあるという皇太子の観念の成立を示すものと見た[27]直木孝次郎は「皇太子」と言う語が日本で成立したのは天武朝期の飛鳥浄御原令(689年)であり、それに先行する制度としての「太子」制(厩戸皇子の立太子がその確実な初例とされる)を想定した[28]。荒木敏夫は、古代の日本において「王位」を巡る争いが頻発している一方で、太子(ヒツギノミコ)位を巡る争いが皆無であるなどの理由から、皇太子という地位自体が飛鳥浄御原令によって成立したのであり、それ以前の太子とは制度的に存在するものではなく、出自や実力を考慮しつつ究極的には人格によって体現されたものであるとして、厩戸皇子(を含む、律令制以前)の立太子の史実性に疑問を投げかけた[29]
  14. ^ この600年の遣隋使は『隋書』記録が残されていることから、このため600年の遣隋使を九州の出先機関からの非公式の使者と見るなど、その史実性を巡って議論があったが、今日では概ね実際に遣使があったと考えられている[36][39]
  15. ^ 冠は宮廷における地位の高低を明示する役割を持っていた[40]
  16. ^ 森公章は率直に「大恥をかいたことが、この遣使の『日本書紀』への不記載の理由であろう」とし[38]吉田孝もまた「倭の使者は、どんなに恥ずかしい思いをしたことだろう。隋の広大な都、倭とは隔絶した文明を眼前にして、倭の使者の受けたカルチャーショックの大きさは、私たちの想像を絶するものがあったろう」と述べ、「推古朝の国制改革は、600年の遣隋使のカルチャーショックを、おそらくは起点としたのである」としている。[42]
  17. ^ 622年4月8日

出典

  1. ^ 石井 2016, pp. 3-7
  2. ^ a b c 義江 2020
  3. ^ 義江 2020, p. 2
  4. ^ 義江 2020, p. 4
  5. ^ 乕尾 1997, p. 1367
  6. ^ a b c 義江 2020, p. 6
  7. ^ a b 倉本 2015
  8. ^ 坂本 1979
  9. ^ 義江 2020, p. 21
  10. ^ a b c 義江 2020, pp. 23-24
  11. ^ 吉村 2020, p. 119
  12. ^ a b 義江 2020, pp. 31-32, 41
  13. ^ 倉本 2015, p. 45
  14. ^ 義江 2020, p. 43
  15. ^ 義江 2020, p. 51
  16. ^ a b 義江 2020, p. 50
  17. ^ 『日本書紀』「用明紀」
  18. ^ 義江 2020, p. 57
  19. ^ 義江 2020, p. 61
  20. ^ a b 義江 2020, p. 62
  21. ^ a b 『日本書紀』「崇峻紀」
  22. ^ 『日本書紀』「崇峻紀」、和訳は宇治谷孟訳に依った。
  23. ^ 義江 2020, p. 68
  24. ^ a b c d e 『日本書紀』「推古紀」
  25. ^ 義江 2020, p. 70
  26. ^ 倉本 2015, p. 58
  27. ^ 荒木 1985, pp. 1-19
  28. ^ 荒木 1985, p. 146
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  30. ^ 鈴木 2018, p. 62
  31. ^ 石井 2016, pp. 32-33, 97-108
  32. ^ 義江 2020, p. 90
  33. ^ a b c d e 鈴木 2018, p. 63
  34. ^ 義江 2020, p. 92
  35. ^ 義江 2020, pp. 96-99
  36. ^ a b 義江 2020, p. 99
  37. ^ a b 吉田 1997, pp. 87-89
  38. ^ a b 森 2006, p. 215
  39. ^ 吉田 1997, p. 87
  40. ^ 吉田 1997, p. 88
  41. ^ 義江 2020, pp. 100-103
  42. ^ 吉田 1997, p. 89
  43. ^ a b 義江 2020, p. 104
  44. ^ 義江 2020, pp. 107-112
  45. ^ a b 義江 2020, p. 122
  46. ^ a b c 関根 2020
  47. ^ 義江 2020, p. 173
  48. ^ 石井 2016, p. 201
  49. ^ 義江 2020, p. 131
  50. ^ 倉本 2015, p. 72
  51. ^ 倉本 2015, pp. 58, 74-75
  52. ^ 義江 2020, p. 141
  53. ^ 倉本 2015, p. 75
  54. ^ 倉本 2015, p. 77
  55. ^ 義江 2020, p. 143
  56. ^ 『日本書紀』「舒明紀」
  57. ^ 倉本 2015, p. 78
  58. ^ a b c d e 磯長山田陵(国史).


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