崇仏論争とは? わかりやすく解説

崇仏論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 17:57 UTC 版)

仏教公伝」の記事における「崇仏論争」の解説

大和朝廷豪族中には原始神道神事携わっていた氏族多く物部氏中臣氏などはその代表的な存在であり、新たに伝来した仏教受容には否定的であったという。いっぽう大豪族の蘇我氏渡来人勢力連携し国際的な視野持っていたとされ、朝鮮半島国家との関係の上からも仏教受容積極であったとされる欽明天皇百済王からの伝来受けて、特に仏像見事さ感銘し群臣対し西方国々の『仏』は端厳でいまだ見たことのない相貌である。これを礼すべきかどうか」と意見聞いた。これに対して蘇我稲目は「西の諸国はみな仏を礼しております日本だけこれに背くことができましょうか」と受容勧めたのに対し物部尾輿中臣鎌子らは「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。改め蕃神拝せば、国神たちの怒りをかう恐れあります」と反対したという(崇仏廃仏論争)。意見二分されたのを見た欽明天皇仏教への帰依断念し蘇我稲目仏像授けて私的な礼拝寺の建立許可した。しかし、直後疫病流行したことをもって物部中臣氏らは「仏神」のせいで国神怒っているためであると奏上欽明天皇やむなく彼らによる仏像廃棄、寺の焼却黙認したという。 以上が通説であるが、近年では物部氏本拠であった河内居住跡から、氏寺渋川廃寺)の遺構など発見され(ただし、渋川廃寺推古期に創建されたとする説も存在している)、また愛知県最古の寺である北野廃寺は、近隣真福寺守屋息子の真福が創建したという伝承があって、白鳳時代仏頭残っているとし、さらに物部氏影響強かった関東では、東日本最古寺跡である寺谷廃寺物部氏関与していたことが指摘されており、神事公職としていた物部氏ですらも氏族内では仏教私的に信仰していた可能性高まっており、同氏単純な廃仏派とする見解見直し迫られている。一方蘇我氏の側も神事軽視していたわけではなく百済聖明王の死を伝え訪日した王子・恵対し、王が国神軽んじたのが王の死招いた諌めたのは蘇我稲目であったまた、物部氏は『先代旧事本紀』や『元興寺縁起』には排仏運動行った様子記されていない上に、物部氏積極的に百済交流をしており、仏像燃やし海に流したのは「罪を祓う祭祀氏族」として祓戸の神のように「仏像=神」の罪を祓い元いた場所へ送り返すためであったとする説が存在する結局のところ、崇仏廃仏論争仏教そのもの受容拒否争ったというよりは、仏教公的な国家祭祀」とするかどうか意見の相違であったとする説や、仏教対す意見の相違表面的な問題過ぎず本質朝廷内における蘇我氏物部氏勢力争いであったとする説も出ており、従来通説疑問投げかけられている[誰によって?]。

※この「崇仏論争」の解説は、「仏教公伝」の解説の一部です。
「崇仏論争」を含む「仏教公伝」の記事については、「仏教公伝」の概要を参照ください。

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