江戸時代後期の崇仏論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 08:50 UTC 版)
水戸藩の学力向上によって成立した水戸学(文献史学)から、神仏の判然、神道の尊重、仏教への疑問がより学習されることとなっていた。また徳川斉昭は、政情不安の国情・藩経営の観点から、藤田東湖・会沢正志斎らとともに、より高い仏教負担軽減策を施行し始めた。さらに天保年間では、水戸藩は防衛整備近代化の一環(大砲の新造)として、寺院から梵鐘・仏具を供出させ、多くの寺院整理にも着手した。これらの経緯と体験は、新政府を形成することになった国際観を持った政治家に、水戸学の有効性を理解させたとされる。また同時期に勃興した国学においても、神仏混淆的であった吉田神道に対して、神仏分離を唱える復古神道などの動きが勃興した。中でも平田派は、明治新政府の最初期の宗教改革に関与することとなったが、近代化への流れの中で次第に衰退した。
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