寺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 04:42 UTC 版)
寺域を画する区画溝は、奈良時代のものと中世のものとがある。奈良時代の溝で囲まれた寺域は、南北250メートル、東西180メートルに及ぶ。なお、寺域北辺の溝は未検出である。中世の溝で囲まれた寺域は、東辺266メートル、西辺250メートル、南辺111メートル、北辺132メートルの不整四辺形で、奈良時代の寺域に比べ、東西方向の幅が狭くなっている。 中心伽藍は前述のとおり法起寺式伽藍配置で、中門、回廊、金堂、塔、講堂、僧房の跡が検出されている。中門から出て左右に伸びる回廊は、伽藍中心部を囲み、北側に建つ講堂の左右に達する。回廊の規模は東西が74メートル(東西回廊の外縁部間の距離)、南北が66メートル(同様に南北回廊の外縁部間の距離)である。回廊で囲まれた内側には、東に塔、西に金堂が建つ(金堂と塔の位置関係は、法隆寺式伽藍配置とは左右逆になる)。これらの中心伽藍跡は耕作によって削平されていて、基壇は全形をとどめておらず、礎石もほとんど残っていない。発掘調査で確認されたのは各建物の堀込地業(基礎工事、地固め)の跡である。 中門の基壇は残っていないが、金堂と講堂の基壇は一部が残り、金堂跡の東・西・南面には河原石、北面には瓦片がみられる。塔跡には心礎が残る。回廊跡は、礎石は残らないが、礎石の根石が一部に残っている。講堂の北には僧房と思われる建物跡があるが、一部が確認されたのみである。また、通常、伽藍の南にある南門は遺構が確認されていない。 中世の区画溝が残り、古瀬戸、常滑など中世の陶片が出土することから、寺院は中世まで存続したことがわかる。ただし、中世の建物遺構は確認されておらず、中世瓦の出土もない。これは、中世の建物は堀込地業を行わずに地表に直接礎石を置いていたことと、屋根には瓦以外の葺材(檜皮など)を使用していたことによるものと思われる。
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