崇福寺跡発掘の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 14:43 UTC 版)
崇福寺跡の調査は近江大津宮(以下、大津宮)の所在地論争と不可分であった。天智天皇が遷都した宮殿について『今昔物語集』には粟津宮(大津市粟津町付近か?)と記載されるなど、遅くとも平安末期にはその所在が不明となっていたが、明治に至ると天智天皇のいわば聖蹟である大津宮の所在を明らかにしようという機運が高まっていた。この頃の考古学会では大津宮はわずか5年で廃された事や、当時の宮殿が礎石や瓦を用いないことからその痕跡を求めることは困難であり、大津宮から北西の山中にあるとされる崇福寺や、その近隣にあるとされる梵釈寺から間接的に位置を探ろうとする考えが主流であった。
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