崇福寺・梵釈寺論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 14:43 UTC 版)
一方で昭和16年に石田茂作は出土した舎利容器の格狭間の様式などから塔心礎納置品を平安時代のものとする説を発表。それらを理由に梅原が撤回した滋賀里山中遺跡を梵釈寺跡、南滋賀遺跡を崇福寺跡とする説を再び取った。これにより梅原と石田の間で崇福寺・梵釈寺論争と称される激しい論争が起きた。梅田は石田が根拠とした格狭間の様式について奈良時代の遺物が極めて少ない点から根拠として薄弱としたうえで朝鮮半島の慶州皇福寺の石塔(706年建立)から出土した舎利容器との類似性を指摘。また瓦、塼仏、鏡の様式、地下式塔心礎、瓦積基壇などを総合的に判断すれば白鳳寺院であることは疑いないとした。これに対し石田は出土した白鳳期の瓦が著しく少ないことや塼仏、鏡の年代観について根拠が薄弱としたうえで、白鳳期に山岳寺院の例がない事、嵯峨天皇の行幸は崇福寺を経て梵釈寺に至ることから崇福寺が麓で梵釈寺を山中とする説などを根拠にした。こうした論争が交わされている昭和17年に塔心礎納置品の旧国宝指定を進めていた文部省国宝調査室から発表前の指定解説書が流出。そこに平安朝と記されていた事から滋賀県が抗議し、旧国宝指定が見送られる騒動になった。
※この「崇福寺・梵釈寺論争」の解説は、「崇福寺跡」の解説の一部です。
「崇福寺・梵釈寺論争」を含む「崇福寺跡」の記事については、「崇福寺跡」の概要を参照ください。
- 崇福寺・梵釈寺論争のページへのリンク