崇禎帝の判断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)
「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「崇禎帝の判断」の解説
尚寧の死去後、1621年に尚豊が跡を継ぐ。尚豊は継位後、1622年に尚寧の死去を伝えるとともに自らの冊封を願う請封を行った。明側から後述のように琉球侵攻後の民力休養の必要性を理由に朝貢を5年ごととするとの決定が下され、尚豊の冊封については認めなかった。その後、琉球側は3度に渡って請封を行ったが、明側はなかなか尚豊冊封に応じようとしなかった。しかし結局は1629年、4度目の請封を受けて尚豊の冊封使を琉球に派遣することを決定する。 尚豊の冊封が決まると、明の朝廷内にこれまでの頒封、領封についての議論を背景に、領封を行うべきであるとの意見が沸き起こった。しかし崇禎帝は、頒封することによって明として琉球に対して二心が無いことを示すとともに、これまで頒封が行われ続けてきた伝統に従うべきであると領封論を退ける。結局、今後琉球国王の冊封は領封とするとの万暦帝の最終決定は反故にされた。なお、この時の冊封使正使の杜三策は冊封使任命後、琉球への航海の危険性、そして冊封使が乗船する船の建造には時間と巨額の費用が掛かり、造船そのものも技術的に難しいと、琉球の頒封を実施する困難さを訴える上奏文を提出している。 琉球頒封の難しさを崇禎帝に訴えた杜三策であったが、結局1633年に冊封使として琉球に渡ることになる。なおこの時の琉球への航海は往復とも比較的順調であった。
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