崇福寺の歴史
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『扶桑略記』には「天智天皇6年(667年)2月に天智天皇の夢に法師が現れて、宮の北西の山中に霊窟があるので外に出て見るようにといって消えた。起きてその方角を見ると山中が輝いており、翌日に人を遣ると夢の通りに霊窟がみつかった。(中略)そこで天智天皇は翌年1月に寺院を創建した」との縁起が記されている。縁起は「整地をすると、高さ1.6mほどの奇妙な宝鐸が掘り出された」と続く。この記述を最古の銅鐸出土記録とする説もあるが、瑞祥記事の一種で後の脚色とする説もある。 崇福寺の造立理由について『扶桑略記』には「奉為二恩」とあり、両親である舒明天皇と斉明天皇への追善意識が想定されるが、『延暦僧録』には「奉為三天皇読経礼仏」とあり、その三天皇が誰を指すのかは定かではない。また『扶桑略記』『延暦僧録』の記述からは天智天皇の弥勒信仰が伺える。なお『延暦僧録』には「天智天皇が指を切り落とし燈籠に納めた」と記されている。事の真偽は不明であるが『今昔物語集』にも引かれる古事であることから、それなりに信じられていたと考えられる。 前述のように崇福寺の創建は天智天皇7年(668年)であると一般に知られている。しかし『扶桑略記』に「建崇福寺。始令平地。」とあるようにこの年は造成の着工を示すもので完成はずっと後になると考えられている。一般に古代寺院の造営は長時間を要し、法興寺は金堂の完成まで18年、栗原寺は塔の完成まで21年を要しており、崇福寺の造成は山寺という特殊性や壬申の乱の混乱もあり困難を伴っていたと考えられている。肥後は『崇福寺綵錦寶幢記』の「辛未之年、勅旨詳矣」の記述により完成を天智天皇10年(671年)とするが、櫻井は3年足らずで完成するとは思えないとし、『公事根源』に「天智天皇の国忌は崇福寺にて行われる。朱鳥2年(687年)より始まる」とあることから、この頃までに金堂などの建立が終わっていたと推測している。 また持統天皇3年(689年)に逝去した草壁皇子の追善法会が行われた可能性や後述する推測などにより、持統天皇が父天智天皇の勅願寺である崇福寺を庇護したという説がある。その後『続日本紀』によると大宝元年(701年)に「近江志我山寺封。起庚子年(700年)計満三十年」と定められる。大宝禄令では寺封は5年とするのと比べて例外的な優遇処置を受けたと言える。こうした厚遇について櫻井は、同時期に山科陵の造営や天智天皇の命日を国忌に定めた事と合わせて、天智天皇の追善意識を高揚する目的があったと推測している。その寺封の満了前である天平元年(729年)には「紫郷山寺者入官寺之例」とあり、官寺として朝廷の庇護を引き続き受けたと考えられる。 天喜5年(1057年)の崇福寺再興の折に崇福寺別当を務めた大僧正明尊が後に園城寺長吏になったことを先鞭に、園城寺の高僧が崇福寺別当に補される記録が散見され、この頃から園城寺の関係性が強くなった事が伺える。長寛元年(1163年)には延暦寺と園城寺の抗争に巻き込まれて、崇福寺梵釈寺も類焼する記録がある。これも含めて創建から平安末期に至るまでに5回の罹災が記録されており再興もされたようだが、これにより崇福寺は荒廃していったと考えられる。 寛喜2年(1230年)の勅により崇福寺は園城寺の中北両院に付属させられた。この頃、中北両院は園城寺南院と激しく争って互いの堂宇を焼き討ちするなどして荒廃しており、崇福寺を中北両院に付属させたのはその復興のためであったと考えられる。また鎌倉末期成立の『延暦寺護国縁起』には「崇福寺の往時の面影はその跡に無く」とあり、この頃までに崇福寺は崇福寺跡から場所を移していたと考えられる。 永和3年(1377年)の文書に法勝寺の再興を助成する目的で毎年料足を納める寺院の中に崇福寺の名がみえる。他の寺院と比べて多いことからある程度の寺勢を保っていたと思われる。また西教寺に伝わる『刀八毘沙門祭文』の奥書に寛正5年(1464年)に崇福寺で書写したと書かれており、この頃まで法灯を保っていたことが確認できる。
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