完成まで
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「エイセ・エイシンガ・プラネタリウム」の記事における「完成まで」の解説
エイセ・エイシンガは、1744年にドロンリプ(英語版)の羊毛梳毛業者の家に生まれ、1768年に結婚して独立し、フラーネカーに移り住んで羊毛梳毛業を営んだ。エイシンガは、公教育は初等教育しか受けていなかったが、数学と天文学に並々ならぬ関心を持っており、少年時代から、週に一度はフラーネカーに通ってユークリッド原論を学び、数学や天文学に関する本の執筆もしていた。また、レーワルデンの数学者・装置開発者ヴィツェ・フォプス(ドイツ語版)に影響を受け、その金星太陽面通過の観測に立ち合い、装置作成や天体観測にも関心を深めていった。 1774年の惑星会合を経て、エイシンガが作ろうと決めた装置は、誰もがみて惑星の運動を直観的に理解できるように、機械で動く太陽系を縮尺した模型、即ちプラネタリウムであった。現代では、プラネタリウムといえば、半球型の天井に投影した星空を眺める、投影式プラネタリウムのことだが、元々は「惑星」を意味する"planet"と「場所」を意味する"arium"が合体した言葉であって、エイシンガの時代は機械式の惑星運行儀のことであった。その頃、プラネタリウムのほとんどは卓上型の装置であったが、エイシンガのプラネタリウムは自宅の居間の天井に大規模な装置を据え付ける、独創的なものであった。 エイシンガは、1774年にプラネタリウムの製作を開始したが、本業に加えて、市の参事会員の仕事もしていたので、その作業は全て空き時間に行うこととなり、7年がかりの作業となった。プラネタリウムについての予備知識もほとんど持たないところから、計算と製図を始め、一部の部品の製作を父親に、時計仕掛けの心臓部となる真鍮製のぜんまいを時計職人に依頼した他は、全ての車輪・歯車、1万本に及ぶ歯車用の鉄釘などをエイシンガ自身の手で作成した。エイシンガは、居間の天井の下にもう一つの天井を設け、その見せかけの天井にプラネタリウムを作り、両者の間にある「天井裏」にプラネタリウムを作動させる時計仕掛けを組み込んだ。当初エイシンガは、最適な長さの振り子を動かすため、居間に隣接する作り付けの寝台の上に穴を開けて、そこを振り子が振れるように設計していたが、これは妻の猛反対にあい、振り子を短くして歯車なども設計し直す、といったこともあった。それでも、1778年には機械部分を作動させられるところまでこぎ着け、1780年2月には塗装など外観に関する部分以外が仕上がり、1781年5月に全ての作業を終え、プラネタリウムが完成した。 プラネタリウムの機械部分が完成した直後、フラーネカーにあった大学の哲学教授をしていた数学者ヤン・ヘンドリク・ファン・スウィンデン(英語版)が、エイシンガが作っている装置の噂を聞きつけて見学に訪れた。プラネタリウムを詳しく調べたファン・スウィンデンは、1ヶ月後にも再び訪れ、エイシンガのプラネタリウムが如何に優れたものかを理解すると、このプラネタリウムの説明を知人達に書き送り、更に解説書まで書き上げて、その年の内、エイシンガがプラネタリウムの塗装を終える前に発表した。ファン・スウィンデンの本が世に出ると、エイシンガの家には来訪者が引きも切らなくなり、作業を邪魔されないためにエイシンガは、一部の友人、学者を除き来客を締め出さざるを得なくなった。しかし、プラネタリウムが完成すると一転、エイシンガはあらゆる人に門戸を開き、近隣の人々だけでなく、国中から旅をしてまで訪れる人々も現れた。 エイシンガは、プラネタリウムが完成しても、自身の計画が完結したとは考えておらず、その後も細かい改良を加えていった。また、1784年には自身の手による豊富な図解付きの説明書を執筆し、二人の息子に遺している。
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完成まで
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ドライゼは前装式銃の撃発機構がフリントロック式から雷管式へ移行して行った時期に、最初の針打ち式銃を試作した。 精密射撃を可能にするライフル銃身は16世紀に実用化されていたものの、燧石式の撃発機構は着火時に大きな衝撃を銃に与えてしまうため、精密射撃は熟練した射手にしか行えない曲芸だった。 燧石式よりもはるかに小さい衝撃と短いタイムラグで着火させられる雷管式は、ライフル銃身と組み合わせる事で、誰にでも精密射撃を可能にさせる新技術として、また雨や湿気に強い雷汞の利点や、発射時に燧石の閃光を発しない等の利点から急速に普及した。 燧石式が射撃の精度に与えていた悪影響が取り除かれると、残された問題として伝統的なサイドハンマー式撃発機構の弊害が認識され始めた。 当時の前装式銃の撃発機構は、多くの雷管式銃が燧石式を改造して製造されていたために、燧石式の撃発機構であるサイドハンマー式がそのまま継承されていたが、銃身の中心軸に対して大角度で打撃を加えるサイドハンマー式は、軸線の安定に干渉していると認識されはじめていた。 また、ニップルと呼ばれる銃身につながった枝状の小さなパイプに、さらに小さな雷管を被せる作業の困難さ(手袋をした手ではほぼ不可能である)と、撃発時にしばしば雷管が破裂して射手の目を傷付けてしまう事故は、サイドハンマー式で利用されていた雷管式が新たにもたらした深刻な問題であり、新しい撃発機構への模索が始まっていた。 ドライゼはこれらの問題点を解決する方策として、最初の前装式ニードルガンを試作した。この銃は、銃身の中心軸線上で前後に動作する長い針を、コイルスプリングによって前進させ、弾丸底部の中央に取り付けられた雷管を突いて着火させる構造で、銃身中心軸線への振動は最小限に抑えられ、雷管は弾丸と一緒に装填できる上に、撃発のプロセスは密閉された銃身内で完結するため、射手への危険は減少した。 このアイデアを成功させたドライゼは、さらに弾丸・雷管・黒色火薬を一体型させた紙製薬莢を試作し、これを銃口からではなく銃尾から装填し、嵌合式のボルトで閉鎖するアイデアと、長い針による撃発機構をボルトに内蔵させるアイデアを追加した事で、後にボルトアクションと呼ばれ広く普及した閉鎖・撃発機構の実用化に成功した。
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完成まで
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制作発表時、ベトナム戦争やアメリカ及びアメリカ軍を批判的に扱った最初の映画として物議を醸したが、スケジュールの遅延やキャスティング面でのトラブル、コッポラの完璧主義によって、撮影と編集が異常に長引いてしまった。撮影は17週間の予定が61週間(1976年3月から1977年5月)にも延び、編集にも2年余りの時間が掛けられた。同様にベトナム戦争を題材にし、この映画の後から制作が始まった『ディア・ハンター』の方が先に公開されたほどである。 撮影終了後の1978年1月、制作会社のゾエトロープ社は作家のマイケル・ハーに電話し、ハーの『ディスパッチズ』(1977年)に基づいたナレーションを書いてもらうよう依頼した。ハーは、自著に書かれた言葉など「まったく使い物にならない」と答え、それからコッポラと共に1年かけて最終稿を完成させた。 映画の完成が遅れるに伴って、映画の制作費も当初の予定を大幅に上回る結果となった。最初の予算は1200万ドル(当時の日本円で約35億円)だったが、実際に掛かったのは3100万ドル(約90億円)だった。そのうち、1600万ドル(約46億円)は、ユナイテッド・アーティスツ社が全米配給権と引きかえに出資したが、残りはこの映画を自分の思いのままに作りたかったコッポラが自分で出した。資金の一部は、日本の配給元でもある日本ヘラルドから支援されたともいわれる。 コッポラの妻エレノア・コッポラは、後に撮影手記『ノーツ - コッポラの黙示録』を出版した。また、彼女が撮影の舞台裏を撮影したビデオや録音テープにスタッフ、キャストへのインタビューを加えたドキュメンタリー映画『ハート・オブ・ダークネス コッポラの黙示録』(原題:Hearts of Darkness: A Filmmaker's Apocalypse )が1991年11月に公開された。当時の制作現場が、いかに「戦場」のようであったかが窺える記録映画となっている。
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完成まで
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「ダビデ像 (ミケランジェロ)」の記事における「完成まで」の解説
ミケランジェロのダビデ像の歴史は、制作期間(1501年から1504年)をはるかにさかのぼり、その始まりは1464年まで辿ることができる。当時サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会の運営権を担う大聖堂造営局は、実質的にフィレンツェ羊毛業組合(英語版)が握っていた。大聖堂(ドゥオーモ)の建築には140年以上を要したため司教は途中で費用を支払えなくなり、この組合が代わりにそれを請け負ったためである。フィレンツェ羊毛業組合は、かねてよりこの大聖堂のバットレス(控え壁)に旧約聖書を題材とした12体からなる巨大な彫像の連作を飾るという計画を立てており、すでに何人かの彫刻家へ発注もしていた。この計画の背景には、15世紀初頭からミラノ公国をはじめとする外部の脅威が迫っていたため、聖書中の聖人や伝説中の英雄の像を大聖堂に飾りフィレンツェの興国の気運を高めようとの配慮があった。しかし、1463年の時点で完成していたのはドナテッロによる「預言者」像とその弟子アゴスティーノ・ディ・ドゥッチオ(英語版)による「ヘラクレス」像の2作だけであった(この2作は、いずれものちに壊されていて現存しない)。この計画を何としても進めるため、大聖堂造営局は同1463年にアゴスティーノと再契約し、ダビデ像を制作するという言質を取りつけた。しかしアゴスティーノは、像の脚部と胸部や衣服の概観を大まかに作り、脚と脚のあいだに隙間を空けるところまで制作を進行させたが、師ドナテッロの死去した1466年、理由は不明ながらも制作を中断し契約も破棄してしまった。大聖堂造営局は、アゴスティーノの未完成品を仕上げるようアントニオ・ロッセリーノ(英語版)に依頼した。 ロッセリーノの契約もやがて破棄され、イタリア北部の都市カッラーラの採石場から運ばれた大理石の塊は大聖堂の事業監督所に25年ものあいだ吹きさらしのまま放置されることとなった。たとえ素材のままではあれ、値段もさることながらフィレンツェまで運ぶのに莫大な人件費や輸送費がかかる巨大な大理石を飾っておくことは、大聖堂造営局の威信を高める効果があったからである。1500年に作成された大聖堂事業監督所の在庫目録には「荒く輪郭を描かれたまま仰向けの状態で放置された『ダビデ』と呼ばれる大理石像」と表現されている。翌年に書かれた文書では、造営局がこの巨大な大理石の塊を作品として完成させることのできる芸術家を探す決意をしたことが示されている。造営局は、招いた芸術家に『巨人像』(完成後『ダビデ』の名が定着するまではたんにこうも呼ばれていた)を調べて意見を述べてもらうためにこれを立たせるよう指示を出した。レオナルド・ダ・ヴィンチをはじめ何人かの芸術家が打診されたが、造営局は26歳の若きミケランジェロに委託することを決定した。1501年8月16日、ミケランジェロはこの困難な仕事を引き受ける契約を正式に交わし、翌9月9日から約3年にわたる制作の第一歩を踏み出した。 ミケランジェロは好奇の視線にさらされながら作業することを嫌い、土台と大理石の周りを仕切りで囲って極秘裏に作業を続けた。フィレンツェ市長が視察に来たときには中に入れざるをえなかったが、このときミケランジェロは作業台の一番上に登り、大理石に打ち付けずに槌の背だけを叩いて音を出し、手の中に握った大理石の粉末を市長の鼻先に散らすことで作業をしている振りをしてごまかした。市長が「いま自分はこの像に命が吹き込まれる瞬間を目の当たりにしたのだな」と感動しながら帰って行くのを見てほくそえんでいたというエピソードをジョルジョ・ヴァザーリが書き残している。この作品のために描かれた素描やスケッチもほとんどがミケランジェロ自身の手によって焼却処分に付された。 1503年から翌年にかけては、他の仕事の依頼が入ったために作業がやや停滞している。上記のような秘密裏の作業やピエタの制作にあたり大理石の採掘に自ら立ち会ったという逸話からも見て取れる通り、ミケランジェロは作品を制作する過程のすべてに直接関与し、己れの全精力を傾けることによって己れの全個性を作品のうちに刻み込むという芸術家としてのポリシーをもっていたため、複数の作品を同時進行で制作しなかった。そのため、断りきれない他の仕事が入るとそれまでの仕事を中断せざるをえなかったのである。こうした別件の委嘱のうちの一つに、フィレンツェ当局のために制作したもう一つのダビデ像がある。正式な契約相手はピエール・ド・ロアン元帥で、この人物がフィレンツェ市庁舎にドナテッロの『ダビデ像』を模したブロンズのダビデ像を寄贈するため1502年8月にミケランジェロへ依頼をしたのである。しかし、1504年にロアン元帥が失脚したためこの契約は破棄され、ミケランジェロも鋳造まで終えていながら仕上げを放棄してしまった。1508年にこのブロンズ像はベネット・ダ・ロヴェツァーノが完成させてフランスのフロリモン・ロベルトの手に渡ったが、17世紀以降行方不明となっている。 彫刻の完成が近づいた1504年1月25日、フィレンツェ市当局はレオナルド・ダ・ヴィンチやボッティチェリを含むフィレンツェの芸術家たちによる協議会を設け、この像を設置するのに最もふさわしい場所を決めるための会合を開いた。市民の士気を高めるという意義を背負ったこの像を最も適切な場所に置くことはもはや市当局の政策の一環であり、ミケランジェロ個人の手を離れた問題となっていたためである。したがって当初の計画通りに大聖堂内もしくはその近くに置くべきと主張したボッティチェリらはむしろ少数派であった。ジュリアーノ・ダ・サンガッロは屋外に置くと大理石が損傷するおそれがあるためシニョリーア広場にあるランツィの回廊(ロッジア・ディ・ランツィ)を提案した。ダ・ヴィンチやピエロ・ディ・コジモらの賛同も得たこの意見が多数を占めたが、市政長官は同じくシニョリーア広場に面した市庁舎(ヴェッキオ宮殿)の正面入口脇に置くという裁定を下した。
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完成まで
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「ピエタ (ミケランジェロ)」の記事における「完成まで」の解説
ミケランジェロは故郷フィレンツェの政情不安や芸術の中心地ローマへの関心からフィレンツェを離れて1496年以来ローマに滞在し、この地でリアリオ枢機卿のために『バッカス』の彫像などを制作していた。ある時、ミケランジェロのもとへ、同地に大使として派遣されていた元サン・ドニ修道院長のフランス人枢機卿ジャン・ド・ビレール・ド・ラグロラからピエタの制作依頼が入った。枢機卿は自分の葬儀の記念のためのピエタ像を求めていたのである。1498年8月27日、枢機卿とミケランジェロは金貨450ドゥカーティの報酬で契約を交わした。同年12月、ミケランジェロはみずから石切り場へ出向いて大理石を手に入れ、制作を開始した。 枢機卿が定めた制作期限は1499年8月であった(この月の6日に枢機卿は死去した)が、ミケランジェロがこれに間に合わせることができたのかどうかは定かではない。ミケランジェロはその後1501年5月にフィレンツェへ戻るが、その間に作られた作品がわずかに未完成の絵画が一点のみであることから、少なくとも1500年までは大作ピエタのために忙殺されていたのだろうという推測が一般的である。 イエス・キリストの亡骸を抱き悲嘆に暮れる聖母マリアという題材は、フィレンツェの画家たちには先例があったが、彫刻で取り上げられるのはきわめて斬新なことであった。しかし北方、とりわけ枢機卿の故郷フランスやドイツでは伝統的にピエタの木像が作られ、聖金曜日の典礼などで用いられていた。またボローニャのサン・ドメニコ教会にはドイツ人の手になるピエタ像があることから、制作に際してミケランジェロがこれらの作品を念頭に置いていたかもしれないことは充分に推測可能である。これらの先例を独特の手法で消化吸収しながら、ミケランジェロは彫鏤を重ねた。
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完成まで
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阿賀野型軽巡洋艦4隻のうち3隻(阿賀野、矢矧、酒匂)は佐世保海軍工廠で建造され、能代のみ横須賀海軍工廠での建造である。仮称第133号艦(能代)は、1941年(昭和16年)9月4日、横須賀海軍工廠で起工。1942年(昭和17年)5月15日、能代と命名。同日附で島風型駆逐艦島風と秋月型駆逐艦5番艦新月も命名された。7月19日、昭和天皇の名代として伏見宮博恭王臨席のもと、第133号艦は進水。同日附で呉鎮守府籍。8月20日、阿賀野型2隻(能代、矢矧)は二等巡洋艦阿賀野型として類別される。 1943年(昭和18年)5月1日、日本海軍は初春型駆逐艦1番艦初春初代艦長、巡洋艦(那珂、長良、青葉)艦長、大淀艤装員長等を歴任した田原嘉興大佐を能代の艤装員長に任命する。 5月20日、田原大佐(能代艤装員長)は制式に能代艦長(初代)となる。主な初代幹部は、副長青砥鳳二中佐、航海長山内正規中佐(引続き戦艦山城航海長を兼務)、機関長岡村徳太郎中佐、運用長阿部了夫大尉。6月5日、山内正規中佐(山城航海長兼能代航海長)は能代航海長を免じられ、石飛矼少佐(臨時名取航海長)が能代航海長に補職。また空母龍鳳砲術長小屋増男少佐が能代砲術長に任命される。6月14日、能代艤装員事務所を撤去。6月30日、竣工。同日、第一艦隊附属となる。
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完成まで
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夕雲型駆逐艦の沖波(おきなみ)は1942年度(マル急計画)仮称第342号艦として舞鶴海軍工廠で建造されることになり、1942年(昭和17年)8月5日に起工した。 1943年(昭和18年)5月25日、沖波は姉妹艦(岸波、朝霜)や海防艦2隻(御蔵、平戸)、標的艦波勝等と共に命名された。3隻(沖波、岸波、朝霜)は同日附で一等駆逐艦夕雲型に登録。7月18日、沖波は進水した。 11月6日、日本海軍は鴻型水雷艇鵲水雷艇長、初春型駆逐艦初春艦長 等を歴任した牧野坦中佐(海兵51期) を、沖波艤装員長に任命した。11月10日、舞鶴海軍工廠に艤装員事務所を設置する。沖波は12月10日に竣工。沖波艤装員事務所は撤去された。牧野艤装員長も、正式に沖波駆逐艦長(初代)となった。舞鶴鎮守府籍となる。
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完成まで
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柴岡晋はある日、汽車の中で「国の発展には工業が必要であり、そのためには水力発電所による電気を動力とすることが必要だ」といった内容の話を耳にする。この話に感動した柴岡は1900年、大和田伝蔵とともに発電所建設を決断した。最初は宮崎市南部の鵜木川に建設を計画したが、地形上の問題があったため1901年に建設予定地を清武川上流に変更し、測量や設計を進行させた。しかし、柴岡・大和田が電力開発の素人であることが不安材料となり、賛同者はいなかった。 松山市に電力開発に詳しい人物、才賀藤吉がいると聞いた2人が松山へ出向いたことで状況は一変する。汽車の話は才賀のものであったことを知ると、双方が意気投合し才賀が宮崎へ訪れることとなった。日露戦争などで建設は幾度と中断したものの、1906年5月に日向水力電気株式会社を設立。総工費10万円を掛けて建設が進められ、1907年7月に完成、8月に運転を開始した。 黒北発電所は宮崎県内初の事業用(一般家庭向けの)発電所であり、黒北発電所の完成により一般家庭に初めて送電されることとなった。当時ランプで生活していた住民は電灯の便利さに驚き、電気唄を歌うまでに至った。 1911年10月には、経緯を後世へ語り継ぐためとして記念碑が建立された。当初は発電所上流部(沈砂池)にあり一般に公開されていなかったが、1988年3月に現在地に移設された。漢文で記述されてあることから、要約文が掲載された看板が別途設置されている。
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1970年(昭和45年)よりダム建設の予備調査が行われ、幾つかの候補地の中から現在の地点が選定された。予定地には、五箇山の中心地から林道で結ばれていた桂集落(1945年の世帯数6戸、人口48人)が存在したが、調査が開始された1970年に集団離村。人家は存在しない状態であったが、田畑10.6ヘクタールや山林131.2ヘクタールが水没することになり、それに対する補償が行われた。計画当初から御母衣ダムに次いで庄川水系第二の規模となるダムであったことから、洪水吐きはゲートレスとした。計画時は非常用洪水吐きを3門、常用洪水吐きをダム中腹に1門設置するほか、非常用洪水吐きの脇にゲートレス水門を左右10門設置する予定であったが、その後の計画改訂で洪水吐きを大幅に削減し非常用洪水吐き2門になった。 ダムを建設するにあたって、工法はコンクリート量を節減して工事費を圧縮することを目的にRCD工法を採用した。RCDとはRoller Compacted Dam Concreteの略で水分量を極力少なくした超固練りコンクリートを何層にも薄く積み重ねてダムコンクリートを打設するものである。1972年に山口県の島地川ダム(島地川)において世界で初めて本格的に導入されたが、境川ダムは高さが100メートルを超えるハイダムにおいて初めてRCD工法が導入されたダムでもあった。 こうした最新の工法を導入してダム建設が進められ、計画着手から20年後の1993年(平成5年)に完成した。現在、庄川水系のダムでは最も新しく、利賀川に現在建設されている利賀ダム(国土交通省北陸地方整備局。110.0メートル)完成後も水系最大級の多目的ダムとして重要な役割を果たす。なお、ダムの欄干に書かれた「境川ダム」の文字は、地元である上平小学校の当時六年生だった女子児童が書いたものである。通常は事業者である国土交通大臣または都道府県知事、あるいは地元首長が揮毫(きごう)する欄干の文字であるが、小学生が書いたのは異例である。
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完成まで
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ダム地点の比奈知地区の内、20戸が水没する事となった。住民はダム建設に対し反対の意思を強め、交渉は困難を極めた。特に1973年(昭和48年)に制定された水源地域対策特別措置法の対象用件(水没戸数30戸以上or水没農地面積30 ha以上)にダムが満たない事もあり、補償交渉は長期化の様相となった。双方の粘り強い交渉の結果補償交渉も妥結、1982年(昭和57年)3月に事業認可が下りて本格的な工事に入った。1998年(平成10年)、ダムは26年の歳月を掛けて完成し、木津川上流ダムとしては最も新しいダムとして本格供用が開始された。 ダムの型式は重力式コンクリートダムで、高さは70.5 m。名張川・木津川・淀川流域の洪水調節、流域既得用水の補給として不特定利水、京都府・奈良市・名張市への上水道供給、中部電力の小規模水力発電(1,800 kW)を目的とした多目的ダムである。高山・青蓮寺・室生・布目ダムと共に総合的な管理が行われ、淀川水系の治水・利水に多大な貢献をしている。
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