完成に至るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/01 23:16 UTC 版)
1942年(昭和17年)6月頃、陸軍航空本部仙台出張所の直轄工事が発注され、現地に陸軍航空本部経理部浅茅野工事本部事務所を設置。1943年(昭和18年)1月に陸軍は第1飛行師団を再編成し北部軍配下に組み入れた。2月には北方軍に改編され、4月に師団より将校2名、軍属工員13名、兵隊5名が派遣され、建設の指揮にあたっている。 工事の施工業者には鉄道工業があたった。発注金額536万円。第1飛行場の主要滑走路は板敷とし、予定地の木材を伐採製材して材料とした。他に2本の転圧滑走路(土砂を人力で押し固めただけのもの)が予定されていたが、工期短縮のため工事途中で放棄されている。板敷滑走路の完成は43年秋、飛行場全体の完成は44年秋と思われる。第2飛行場は1943年(昭和18年)5月に予定地が決定し、同じく鉄道工業が請け負った。12月に陸軍省が浜鬼志別原野214番地の33haを買収、44年7月までに滑走路の転圧を終えて一応の完成を見ている。この間、陸軍参謀本部では北東方面航空作戦準備促進要望の件を発令し、工事の早期完工を促している。 工事にあたっては、受注した鉄道工業から旭川市の丹野組に土木工事全般が下請けされ、川口組は付帯施設の建築工事を担当した。川口組の下請には稚内市の坂本建設、本多建設、松本組、坂本組などの業者が関わった。 鉄道工業、丹野組、川口組は、ともに工期の早さで知られていた。また、宇都宮刑務所の囚人も兵舎建築に動員されていた。他に学徒勤労奉仕、地域住民の勤労報国隊などが動員され、工事にあたったと記録にある。学徒勤労奉仕には測量のため日本大学工学部の学生、旭川工業学校の生徒などが動員された。
※この「完成に至るまで」の解説は、「浅茅野飛行場」の解説の一部です。
「完成に至るまで」を含む「浅茅野飛行場」の記事については、「浅茅野飛行場」の概要を参照ください。
完成に至るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 05:21 UTC 版)
標高120mの黒部川による低位河岸段丘である十二貫野台地上にある宮野山は、かつては草刈場として入会地に用いられ、加賀藩の椎名道三らによる灌漑後は水田として利用されていた。 宮野運動公園は黒部市で最初の都市計画公園で、1959年(昭和34年)の計画立案から30年以上の歳月をかけて1994年(平成6年)に完成した。 公園の立地は、保水力が乏しく「ザル田」と呼ばれた黒部川扇状地に1951年(昭和26年)に客土(流水で田に土を送り込む「流水客土」という手法が用いられた)となる粘土質の土壌を採取した跡地を再利用したものである。公園付近の宮野山は呉羽山礫層と呼ばれる土壌で、「くさり礫」と呼ばれる風化した礫が見られる。
※この「完成に至るまで」の解説は、「宮野運動公園」の解説の一部です。
「完成に至るまで」を含む「宮野運動公園」の記事については、「宮野運動公園」の概要を参照ください。
- 完成に至るまでのページへのリンク