完成までの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/16 07:21 UTC 版)
江戸時代にあっても、新しい堰を作り用水するためには、藩の許可が必要であり、その許可を得るには既存の水利権者の承諾が必要であった。江戸時代末期に波田堰を計画した波多腰六左衛門親子らにとっては、この既存の水利権者である12の堰関係者の承諾を得ることが難関であった。 寛政年代(1789年 ~1801年)に、波多腰六左衛門は、有志とともに梓川12の堰関係58か村へ新堰開鑿の承諾を求め、懇願の末やっと堰幅4尺、水深2尺以下の条件で話し合いができた。しかし、この小規模な堰では収支が償わないので、起工を思いとどまった。 嘉永年代(1848年 ~1854年)に、次代の波多腰六左衛門らの同志が、木曽谷に流れる笹川の水を、境峠をまわして奈川へ落とすことを考え、松本藩に出願した。しかし、木曽は親藩且つ大藩の尾張藩領で境論があったので、事を構えたくない松本藩はこれを許可しなかった。 万延元年(1860年)には、黒川谷の沢水を引くことを検討したが、水量が少なく効果なしだとわかり、取りやめになった。 次代の波多腰六左衛門の孫である波多腰六左は、1869年(明治2年)、百瀬精一郎とともに、洪水によって流失した田の分の水を「換水」するという手法で新堰を造る許可を藩に願い出た。毎年の経緯をへて、1871年(明治4年)に、松本藩がみずから工事に着手した。しかし半年をへずして廃藩置県となり、堰工事は筑摩県が担当することになった。県の役人による工事は杜撰で、1872年(明治5年)に通水試験をしてもやっと赤松下まで達しただけだった。 1874年(明治7年)になって、それまで県営の新堰として工事していたものを、無償で上波多村と下波多村に払い下げられた。この時に、下原新堰の名称を波田堰に変えた。しかし、続きの工事に金を出すものがないので、波多腰六左が金を出し、完成後には灌漑した田の持ち主が水代を出す約束で工事が進められた。 1875年(明治8年)には、開田28町1反1畝であった。1878年(明治11年)には、堰幅が広げられ、堰尾が直線に延長され、開田も進んだ。11の分け堰にそれぞれ水門を設け、水田面積に応じて平等に水量を分け、その後の準率とした。
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