堂宇
堂宇
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本堂 - 慶応元年(1865年)10月、28世の戒亮院日住が再建した本堂が伝わっていたが、老朽のため昭和50年代に新築再建。木造屋根銅板葺、間口五間、奥行六間、内陣の間口三間、奥行二間。 庫裏 - 檀信徒の寄進による。
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堂宇
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本堂 薬師堂 - 薬師如来を安置している。 地蔵堂 - 地蔵菩薩を安置している。 鐘楼 - 梵鐘は1945年(昭和20年)の鋳造。
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堂宇
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境内には、日本の著名仏教建築などを模した建物が所狭しと配置されている。詳細は以下のとおりである。 山門 - 京都御所紫宸殿の門を模したもの。御所の門は素木造であるのに対し、こちらは鉄鋼13トンを用いた極彩色の門である。登録有形文化財。 中門 - 法隆寺西院伽藍の楼門(中門)を模したもの。登録有形文化財。 羅漢堂 - 法隆寺西院伽藍の回廊を原型とした。中門の左右に伸びる回廊状の建物で、内部には五百羅漢像を安置する。登録有形文化財。 礼拝堂 - 中門を入って真正面に位置する。清水寺西門を原型とし、内部に観世音菩薩像がある。 鼓楼 - 中門を入った先の右に位置する。新薬師寺鐘楼を模したもの。登録有形文化財。 鐘楼 - 中門を入った先の左、鼓楼と対称位置にある。新薬師寺鐘楼を模したもの。登録有形文化財。 五重塔 - 鼓楼・鐘楼から階段を上がって一段高くなった敷地に建つ。室生寺五重塔を模したもので、心柱は鉄鋼製。第二次大戦後の起工で、1955年に完成した。 法宝蔵 - 五重塔の右に位置する。四天王寺金堂を模したもの。近代美術展示館(3号館)となっている。登録有形文化財。 僧宝蔵 - 五重塔の左、法宝蔵と対称位置にある。四天王寺金堂を模したもの。茶道美術展示館(4号館)となっている。登録有形文化財。 孝養門 - 五重塔からさらに階段を上がった敷地に建つ。10年をかけて1963年に完成した。日光東照宮陽明門を模したものであるが、陽明門よりも色鮮やかで、「母親を綺麗に着飾らせたいという気持ちで作られた」とも言われる。五重塔と孝養門は第二次大戦後の建築であるため、登録有形文化財の登録対象外となっている。 至心殿 - 孝養門の右方に建つ。法界寺阿弥陀堂を模したもので、現在は法要具倉庫としている。登録有形文化財。 信楽殿(しんぎょうでん) - 孝養門の左方に建つ。法界寺阿弥陀堂を模したもので、当寺の大講堂である。登録有形文化財。 大礼壇 - 孝養門の先、本堂の手前にある大理石の礼壇。 本堂 - 平等院鳳凰堂を模したもの。1940年完成。中堂には本尊阿弥陀如来像を安置。西翼楼には塑造の不空羂索観音像(第二次大戦後の制作)、東翼楼には奈良・興福寺から移された釈迦如来坐像(重要文化財、平安時代)を安置する。登録有形文化財。 千仏洞地獄峡 - 約350mに及ぶ地下霊場。仏教世界の地獄観・極楽観を描く。1955年起工、1964年完成。建設時に富士山の熔岩と浅間山の焼石も使われた。 救世観音大尊像 - 本堂左後方に立つ。コンクリート・漆喰併用の彫像で総高15mで、法隆寺夢殿の御本尊・秘仏救世観音が手本である。1967年完成。 多宝塔 - 本堂右方に建つ。石山寺多宝塔を模したもの。八角円堂とともに伽藍の中心軸線に対し正面を45度振って建っており、日本の社寺の中では唯一の配置だと言われる。登録有形文化財。 八角円堂(聖徳堂) - 本堂左方に建つ。法隆寺の夢殿を模したもの。登録有形文化財。 銀龍閣 - 八角円堂のさらに西方にある「琵琶の池」の畔に建つ。慈照寺銀閣を模したもの。登録有形文化財。 茶祖堂 - 伽藍の東南隅に建つ小堂で、1966年の竣工である。複雑な屋根形式を持つ。毎年11月3日の文化の日に茶筅に感謝の意を込める供茶式と野点の行事を行っている。 仏宝蔵 - 境内西側に建つ。新薬師寺の本堂を模したもの。登録有形文化財。 潮聲閣 - 境内西側に建つ。金本耕三が母のために建てた旧邸宅で、入母屋造の日本住宅と二階建ての洋館の二部分からなる。耕三寺建立の原点。登録有形文化財。 藤棚 - 憩いの場。 金剛館 - 境内南方に建つ宝物館。1968年完成。 未来心の丘 - 境内北方に位置する。広さ5000平方メートル、高低差は25メートル、イタリア・カッラーラ産の3000トンの大理石を用いた環境芸術。丘の上から瀬戸田の町と瀬戸内海を見渡せ、丘全体には「毘沙門天」や「光明の塔」など、大小10あまりのモニュメントが点在する。彫刻家の杭谷一東が1988年から12年をかけて作り上げたという。
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堂宇
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観音堂 鷹栖観音堂の本体。江戸時代の絵図によれば、かつては山門などもあったようだが、現在は失われている。断崖に作られた懸造りの建築物。過去何度か建て替えられた記録が残り、現在の建物は江戸時代の建築。階段の登り口には仁王像が残されているほか、仁王像周辺には多数の地蔵・石仏などがある。中には小振りながら磨崖仏もある。現在は文化財保護の観点から主な祭礼は慈眼堂で行われる。 大悲堂 通常の参拝に使うため、地元民の寄付により観音堂下に建設された堂塔。周辺の公園の休憩所として使われる東屋風の建築で、休憩所の奥に観音像が安置されているような形式になっている。 慈眼堂 観音堂の老朽化に対応し、祭祀等も行えるような通常の寺院建築として観音堂下に建設された堂塔。祭礼の際には多数の参拝者が一度に詰めかけるため、老朽化した観音堂では危険があることから、もっぱらこちらで行われる。 薬師堂 宇佐八幡宮弥勒寺から移された旧虚空蔵寺の本尊を祀る。断崖の中に安置された懸造りである点は観音堂と同じだが、こちらは参拝者が中にはいるような造りではなく、ただ薬師像を安置するためだけの建物である。上記の3つの堂とは少し離れた位置にある。
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「東福寺 (横浜市港南区)」の記事における「堂宇」の解説
関東大震災で本堂が倒壊したので25世海旭により再建され、のち1963年(昭和38年)11月10日に瓦葺屋根の本堂に新築した。 書院、庫裏は1922年(大正11年)の新築であり震災の被害もなく現在に至る。屋根は亜鉛葺。 鐘楼、山門は瓦葺。鐘は1957年(昭和32年)に新鋳。 また、東福寺近辺は明治から大正時代には、横浜の花どころといわれ、花かごをせおって商いする風景がよく見られたという。東福寺の「花塚」は、村の人が花の精に感謝する気持で、作られたものとされる。 ほかに接待所、花塚、親鸞上人像、庚申塔がある。
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堂宇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 14:12 UTC 版)
「光明寺 (横浜市南区)」の記事における「堂宇」の解説
本堂-間口7間、奥行10間の入母屋造。向拝唐破風造木造瓦葺き。無憂の間、吉上の間、法雲の間、金雲の間の4室と、執事寮・学衆寮・知客寮からなる。 書院客殿-建坪130坪余り木造瓦葺き。元小田原御用邸の一部。 鐘楼-和香殿鉄筋コンクリート造、二階建。 梵鐘-昭和36年(1961年)9月鋳造、鋳匠山形住渡辺壹郎
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