祭祀氏族とは? わかりやすく解説

祭祀氏族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 09:13 UTC 版)

香取神宮」の記事における「祭祀氏族」の解説

神宮の祭祀氏族は、古く香取連(かとりのむらじ、香取氏)一族であったといわれる。「香取大宮司系図によればフツヌシ経津主の子益命(なえますのみこと、天苗加命)がその始祖で、敏達天皇年間572年?-585年?)に子孫の豊佐登が「香取連」を称し文武天皇年間697年-707年)から香取社を奉斎し始めたという。 このように香取氏はフツヌシ神裔称する一族であったが、その後同系によれば大中臣氏から大中臣清暢が香取五百島養子入って香取大宮司を、清暢の子の秋雄が香取大禰宜担ったという(ただし人名時期信頼性は低い)。以後平安時代末期までは大宮司大禰宜とも大中臣氏独占した。ただし香取神宮藤原氏氏神であったため、その補任中央の藤原氏管掌されていた。 関係略系図 系図は左から右。実線実子点線養子を表す。 経津主命 天苗加命益命) (略) 香取連豊佐登 (略) 五百島 香取大宮司清暢 香取大禰宜秋雄 養子大中朝臣清麻呂 (略) 清暢 康治元年1142年)に鹿島神宮大宮司中臣氏一族から香取神宮大宮司への任命があって以降は、香取大中臣氏鹿島中臣氏とが香取大宮司職を巡って対立見せた両氏鎌倉幕府摂関家働きかけ抗争し、最終的に寛喜年間1229年-1232年)頃に大中臣氏側が勝利したこの頃から藤原氏影響薄れ大中臣氏一族内部大宮司大禰宜職や社領巡って抗争展開された(香取社応安訴訟事件)。この抗争応安7年1374年)頃に終息至り鎌倉末期室町期大禰宜家が主導権握って安定化した。その後近世には江戸幕府統制下に入ったが、抗争繰り返されていたことが散見される

※この「祭祀氏族」の解説は、「香取神宮」の解説の一部です。
「祭祀氏族」を含む「香取神宮」の記事については、「香取神宮」の概要を参照ください。

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