祭神・祭祀氏族についてとは? わかりやすく解説

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祭神・祭祀氏族について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 16:38 UTC 版)

鹿島神宮」の記事における「祭神・祭祀氏族について」の解説

鹿島神宮祭祀氏族としては、中臣氏知られている。史書見える頃からすで中臣氏活躍見せており、中臣氏から出た藤原氏氏神として神宮崇敬した。現存する系図にも中臣氏一族鹿島神宮社家輩出した事情見え、『常陸国風土記』にも一族鹿島神祭祀した記事がある。一方で中臣氏神宮管掌するようになったのは、朝廷東国経営強化要請から中央祭祀を司る中臣氏祀官再編したためとする説や、原始祭祀氏族没落によるとする説もある。その場合、掌握時期についても、藤原鎌足614年-669年)の常陸国封戸獲得時点とする説、中臣鹿島賜姓時点746年)とする説がある。中臣氏が本来の管掌氏族ではないと見る論者中には掌握以前祭祀氏族に関しては、次の説がある。 多氏説 中臣氏以前氏族多氏(おおうじ)に見る説で、根拠として、「鹿島本宮」ともいわれる大生神社潮来市大生北緯3559分30.54秒 東経140度33分06.43秒 / 北緯35.9918167度 東経140.5517861度 / 35.9918167; 140.5517861 (大生神社(称 鹿島本宮)))の存在がある。その社名「おおう」は、多氏一族居住したことによると伝えられ奈良多神社多氏本拠地)からの勧請という伝承もある。また大生神社例祭には鹿島神宮から物忌が出輿したとされるが、物忌神宮祭事のうち年6回し携わることはなく(神職節)、その1つを境外大生神社占めていたことは破格扱いといえる大生神社に関する古文書には、春日大社創建契機として鹿島神宮性格変えたこと、それに大生神社が関わっていることが記載されている。この大生神社周辺には古墳時代中期5世紀)の古墳群大生古墳群)が残っており、神社祭祀氏族の墓とされ、各前方後円墳いずれも大生神社または鹿島神宮向いているという指摘もある。 多氏については、鹿島郡割く以前那珂地域治めた仲国造や、鹿島苗裔神が特に多い陸奥国磐城郡国造道奥石城国造)が、いずれも多氏祖の神八井耳命であったことも併せて指摘される一方氏神古来より血縁集団祖神であり、その神を祀るのは原則として神裔氏族であり、また系図史料では建御雷神中臣氏祖神位置づけている。これによれば多氏建御雷神神裔ではないことは明白で、またその他多氏族が居住した地域尾張国科野国など)において多氏建御雷神祀った例は見られない。また阿伎留神社伝承などからも崇神朝に玉造氏と中臣氏祖先武蔵到来し玉造氏が陸奥地域展開したことが指摘されており、近年木簡出土状況からも陸奥において卜部分布多かった可能性があるため、中臣氏卜部氏)の部民関係者による祭祀よるものと見られる物部氏説 物部氏原始祭祀氏族とする説によればタケミカヅチ韴霊剣石上神宮の関係から、タケミカヅチ物部氏奉じた神とする説。この中で5世紀から6世紀頃に物部氏フツノミタマ奉じて各地遠征したといい、6世紀発生した武蔵国造の乱東国鎮守設定要請合致する説明される鹿島神宮祭神古くよりタケミカヅチとされているが、『古事記』『日本書紀』・『常陸国風土記』には祭神タケミカヅチとする直接的な言及はなく、初見は『古語拾遺』(807年成立)または『延喜式所収の「春日祭祝詞」(768年から927年成立)にまで下る(「祭神」節)。 鹿島神タケミカヅチ見ない論者は、その祭神設定の経緯としては、ヤマト政権東国経営進めに伴い原始祭祀の神に対して中臣氏タケミカヅチ代位したという見方がされている。一方上記のようにタケミカヅチ物部氏祀る神という見方や、鹿島に残る「ミカ = 甕」伝承神名との指摘もある。このようにタケミカヅチ常陸根付いたのは、8世紀をそう遡らないと見る説がある。一方中臣氏遠祖と見られる火之迦具土神波邇夜須毘売神の名が天香具山埴土通じ埴土作る甕やタケミカヅチ祖先である甕速日神関わることから、甕伝承中臣氏氏神と見る傍証とする説もある。 そのほか香取神宮祭神の「イハヒヌシ(イワイヌシ、伊波比主・斎主)」という別称から、鹿島香取両神宮について「鹿島 = 朝廷の神」に対する「香取 = 在地の神(奉仕する神)」という、伊勢神宮内宮・外宮似た祭祀関係の指摘もある。

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祭神・祭祀氏族について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 09:13 UTC 版)

香取神宮」の記事における「祭神・祭祀氏族について」の解説

神宮草創については、朝廷東国支配拠点として両社祀ったのが創祀と見る説、それ以前から原形となる祭祀存在したとする説(下記)がある。 また、現在の香取神宮では主祭神の公称を「フツヌシ経津主)」としているが、『日本書紀』によるとフツヌシには「イハヒヌシ(伊波比主/斎主)」という別称がある。神宮との関係を示す文献は、『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『延喜式』ではイハヒヌシ、『古語拾遺』ではフツヌシ採用される。これらの神名から、神宮黎明期に関して次のような議論がある。 フツヌシ経津主) 「フツ」とは刀剣の鋭い様を表した言葉といわれ、刀剣を表す神名とされる関連して記紀には「フツノミタマ布都御魂韴霊)」という神剣見えフツノミタマタケミカヅチから高倉下下され、のち物部氏氏神石上神宮奈良県天理市)に祀られたという。 フツヌシワカフツヌシ神名『出雲国風土記』にも多く登場し諸国にも多く分布するといわれる。これは物部氏神剣フツノミタマ奉じて各地征討した結果各地フツノミタマ神格化したフツヌシ祀られたためとされる。そしてこれらの伝承を基にして、フツヌシ国譲り神話登場する説明される一方フツヌシ『古事記』には見えないため、『古事記』見えタケミカヅチの別名「建布都/豊布都」からの造作と見る説もある。 香取神本質をこのフツヌシと見る説では、『古語拾遺』のみ記載異なることについて、同書斎部広成によって記され中臣氏藤原氏批判書物であり、より本質に近い記載である可能性指摘する史書異な記載をしたのは、祭祀氏族香取氏)の本源物部氏であったためとする説もある。 イハヒヌシ(イワイヌシ、伊波比主/斎主) 「いわう」にあてられる「斎」「祝」の字義から、「イハヒヌシ」とは「祭事執行者」を意味する神名推測される香取神をイハヒヌシと見る説では、『古語拾遺』以外が全てイハヒヌシと記すことを根拠とする。『古語拾遺』のみ記載異なることについては、斎部広成中臣氏神について正し知識持ち合わせなかったとする説がある。祭神名からは、「鹿島 = 朝廷の神」に対する「香取 = 在地の神(奉仕する神)」という、伊勢神宮内宮・外宮似た祭祀構造指摘される。また神階鹿島に遅れること、勲等がないことは奉仕するであったためとも推測されるほか、神を祀るのは女性の任であったことから祭神女神とする見方もある。 祭祀氏族としては、古く経津主神神裔称する香取氏(かとりうじ)であったことが知られているが、その香取氏の本質物部氏であると指摘する説がある。その中でフツノミタマフツヌシ関連性史書見え周辺物部氏族の存在から、フツヌシ物部氏氏神として祀られたと推測なされている。一方香取神宮下海上国造氏神であったとし、その国造担った他田日奉部氏(おさだのひまつりべうじ)を原始氏族推測する説もある。他田日奉部氏は宗教的部民で、直(あたい)という従属性の強いカバネ有しており、「イハヒヌシ」という奉仕する神の性格とも合致する指摘される一方香取氏はこの下海上一族支配下にあったと見る説もある。

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