祭神・祭祀氏族について
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鹿島神宮の祭祀氏族としては、中臣氏が知られている。史書に見える頃からすでに中臣氏が活躍を見せており、中臣氏から出た藤原氏も氏神として神宮を崇敬した。現存する系図にも中臣氏の一族が鹿島神宮の社家を輩出した事情が見え、『常陸国風土記』にも一族が鹿島神を祭祀した記事がある。一方で中臣氏が神宮を管掌するようになったのは、朝廷の東国経営強化の要請から中央祭祀を司る中臣氏が祀官を再編したためとする説や、原始祭祀氏族の没落によるとする説もある。その場合、掌握時期についても、藤原鎌足(614年-669年)の常陸国封戸獲得の時点とする説、中臣鹿島賜姓の時点(746年)とする説がある。中臣氏が本来の管掌氏族ではないと見る論者の中には、掌握以前の祭祀氏族に関しては、次の説がある。 多氏説 中臣氏以前の氏族を多氏(おおうじ)に見る説で、根拠として、「鹿島の本宮」ともいわれる大生神社(潮来市大生、北緯35度59分30.54秒 東経140度33分06.43秒 / 北緯35.9918167度 東経140.5517861度 / 35.9918167; 140.5517861 (大生神社(称 鹿島本宮)))の存在がある。その社名「おおう」は、多氏一族が居住したことによると伝えられ、奈良の多神社(多氏本拠地)からの勧請という伝承もある。また大生神社の例祭には鹿島神宮から物忌が出輿したとされるが、物忌は神宮祭事のうち年6回しか携わることはなく(神職節)、その1つを境外の大生神社が占めていたことは破格の扱いといえる。大生神社に関する古文書には、春日大社創建を契機として鹿島神宮が性格を変えたこと、それに大生神社が関わっていることが記載されている。この大生神社周辺には古墳時代中期(5世紀)の古墳群(大生古墳群)が残っており、神社祭祀氏族の墓とされ、各前方後円墳がいずれも大生神社または鹿島神宮を向いているという指摘もある。 多氏については、鹿島郡を割く以前の那珂地域を治めた仲国造や、鹿島苗裔神が特に多い陸奥国磐城郡の国造(道奥石城国造)が、いずれも多氏祖の神八井耳命系であったことも併せて指摘される。 一方氏神は古来より血縁集団の祖神であり、その神を祀るのは原則として神裔の氏族であり、また系図史料では建御雷神を中臣氏の祖神と位置づけている。これによれば多氏は建御雷神の神裔ではないことは明白で、またその他多氏族が居住した地域(尾張国、科野国など)において多氏が建御雷神を祀った例は見られない。また阿伎留神社の伝承などからも崇神朝に玉造氏と中臣氏の祖先が武蔵に到来し、玉造氏が陸奥地域に展開したことが指摘されており、近年の木簡出土状況からも陸奥において卜部の分布が多かった可能性があるため、中臣氏(卜部氏)の部民関係者による祭祀によるものと見られる。 物部氏説 物部氏を原始祭祀氏族とする説によれば、タケミカヅチ・韴霊剣・石上神宮の関係から、タケミカヅチは物部氏が奉じた神とする説。この中で、5世紀から6世紀頃に物部氏はフツノミタマを奉じて各地に遠征したといい、6世紀に発生した武蔵国造の乱と東国の鎮守設定の要請が合致すると説明される。 鹿島神宮の祭神は古くよりタケミカヅチとされているが、『古事記』・『日本書紀』・『常陸国風土記』には祭神をタケミカヅチとする直接的な言及はなく、初見は『古語拾遺』(807年成立)または『延喜式』所収の「春日祭祝詞」(768年から927年に成立)にまで下る(「祭神」節)。 鹿島神をタケミカヅチと見ない論者は、その祭神設定の経緯としては、ヤマト政権が東国経営を進めるに伴い、原始祭祀の神に対して中臣氏がタケミカヅチを代位したという見方がされている。一方、上記のようにタケミカヅチは物部氏の祀る神という見方や、鹿島に残る「ミカ = 甕」伝承と神名との指摘もある。このようにタケミカヅチが常陸に根付いたのは、8世紀をそう遡らないと見る説がある。一方、中臣氏の遠祖と見られる火之迦具土神や波邇夜須毘売神の名が天香具山の埴土に通じ、埴土で作る甕やタケミカヅチの祖先である甕速日神に関わることから、甕伝承を中臣氏の氏神と見る傍証とする説もある。 そのほか、香取神宮祭神の「イハヒヌシ(イワイヌシ、伊波比主・斎主)」という別称から、鹿島・香取両神宮について「鹿島 = 朝廷の神」に対する「香取 = 在地の神(奉仕する神)」という、伊勢神宮の内宮・外宮に似た祭祀関係の指摘もある。
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祭神・祭祀氏族について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 09:13 UTC 版)
神宮の草創については、朝廷が東国支配の拠点として両社を祀ったのが創祀と見る説、それ以前から原形となる祭祀が存在したとする説(下記)がある。 また、現在の香取神宮では主祭神の公称を「フツヌシ(経津主)」としているが、『日本書紀』によるとフツヌシには「イハヒヌシ(伊波比主/斎主)」という別称がある。神宮との関係を示す文献は、『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『延喜式』ではイハヒヌシ、『古語拾遺』ではフツヌシが採用される。これらの神名から、神宮の黎明期に関して次のような議論がある。 フツヌシ(経津主) 「フツ」とは刀剣の鋭い様を表した言葉といわれ、刀剣を表す神名とされる。関連して記紀には「フツノミタマ(布都御魂、韴霊)」という神剣が見え、フツノミタマはタケミカヅチから高倉下に下され、のち物部氏氏神の石上神宮(奈良県天理市)に祀られたという。 フツヌシやワカフツヌシの神名は『出雲国風土記』にも多く登場し、諸国にも多く分布するといわれる。これは物部氏が神剣フツノミタマを奉じて各地を征討した結果、各地でフツノミタマを神格化したフツヌシが祀られたためとされる。そしてこれらの伝承を基にして、フツヌシが国譲り神話に登場すると説明される。一方、フツヌシは『古事記』には見えないため、『古事記』に見えるタケミカヅチの別名「建布都/豊布都」からの造作と見る説もある。 香取神の本質をこのフツヌシと見る説では、『古語拾遺』のみ記載が異なることについて、同書が斎部広成によって記された中臣氏・藤原氏批判の書物であり、より本質に近い記載である可能性を指摘する。史書が異なる記載をしたのは、祭祀氏族(香取氏)の本源が物部氏であったためとする説もある。 イハヒヌシ(イワイヌシ、伊波比主/斎主) 「いわう」にあてられる「斎」「祝」の字義から、「イハヒヌシ」とは「祭事の執行者」を意味する神名と推測される。 香取神をイハヒヌシと見る説では、『古語拾遺』以外が全てイハヒヌシと記すことを根拠とする。『古語拾遺』のみ記載が異なることについては、斎部広成が中臣氏の神について正しい知識を持ち合わせなかったとする説がある。祭神名からは、「鹿島 = 朝廷の神」に対する「香取 = 在地の神(奉仕する神)」という、伊勢神宮の内宮・外宮に似た祭祀構造が指摘される。また神階が鹿島に遅れること、勲等がないことは奉仕する神であったためとも推測されるほか、神を祀るのは女性の任であったことから祭神を女神とする見方もある。 祭祀氏族としては、古くは経津主神の神裔を称する香取氏(かとりうじ)であったことが知られているが、その香取氏の本質は物部氏であると指摘する説がある。その中で、フツノミタマとフツヌシの関連性、史書に見える周辺の物部氏族の存在から、フツヌシが物部氏の氏神として祀られたと推測がなされている。一方、香取神宮が下海上国造の氏神であったとし、その国造を担った他田日奉部氏(おさだのひまつりべうじ)を原始氏族に推測する説もある。他田日奉部氏は宗教的部民で、直(あたい)という従属性の強いカバネを有しており、「イハヒヌシ」という奉仕する神の性格とも合致すると指摘される。一方、香取氏はこの下海上一族の支配下にあったと見る説もある。
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