出土状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 14:51 UTC 版)
出土状況に関しては所伝に異同が見られる。まず、出土直近の状況を窺わせる『輶軒小録』によると、享保13年(1728年)秋に大沢村の平右衛門なる農夫が自宅の敷地内で古墓を発見したと伝えるが、この出土地を『好古小録』は「大沢村山崩ルル所ヨリ」、翠軒は「宇智郡掘之尾山中」(翠軒識文)とするように前近代の記録はやや精確性に欠き、大正の『大日本金石史』や『奈良県宇智郡誌』は現盛土の後北方に当たる字三本松の延見寺址であったとし、更に土地の古老の言では現盛土の東南方の小崖上であったとしている。これら区々の所伝は下述するように発掘後大沢村の蓮花寺に半世紀以上納められていた時期がある事や、その間或いは現在に至る地勢の変化を勘案すると、当初の出土地点は現盛土周辺のどこかとしか言えないのが現状となっている。なお、発掘者についても『古京遺文』が農夫源八なる者が掘り出したと述べる等、異同が見られる。 次に出土品であるが、『輶軒小録』によると、4から5升程の容積のある壺と瓦(恐らくは塼)12枚を発掘、瓦の1枚に銘文が刻まれていたので墓誌であることが判ったとするが、『大和名所図会』は「古瓦三十枚を出だす。しかれども損じて、全き物十枚ばかり、今散在して残るもの三枚」とし、延享の再発掘時の記録らしい翠軒識文は、4片ありとする。それら記録を総合すると、古墓は蔵骨器と覚しき1個の壺(もしくは瓶)の下に塼複数枚を敷き詰めて構成されていたと推定でき、また『古京遺文』に朱砂を填めた刻字とある事から墓壙中には丹が塗られていた可能性がある。 なお、上述した同時代で同構造と思われる岡山県の東三成発掘の古墓からこれも等しく塼12枚が出土した事は注目される(後述)。
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出土状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 01:15 UTC 版)
「甲を着た古墳人」は、31号溝の底から発見された。溝の底で膝を曲げて腕を地につけ、うつ伏せにうずくまるように倒れていた。胴体には、短冊状の小鉄板である小札(こざね)を紐で縅した(連接した)「小札甲」(挂甲とも)を身に付けていた。 31号溝の遺構内部を満たす覆土はHr-FAテフラで充填されており、「甲を着た古墳人」が火砕流が襲来した際に溝の底にうつぶせ、そのまま直撃を受けて埋没したことは確実である。 古墳人の遺体周囲には、同時に火砕流に巻き込まれた同人物の所持品とみられる遺物なども埋没していた。古墳人の所持品とみられるものとして矛と鉄鏃(束にした矢)が検出された。矛は刃部~袋部(木柄を差し込み接続するソケット状の部分)と把部との境目付近に鹿角(ろっかく:シカの角)製の装飾が付けられているものであった。鹿角製の装具を伴う矛の出土例は、熊本県宇城市の国越古墳出土例・福岡県行橋市の稲童21号墳出土例がある。 鉄鏃にも鹿角製の装飾が付けられており、他の事例では大阪府羽曳野市の峯ヶ塚古墳出土例があるが、極めて少ないうえ、当時古墳人が1度に装備していた矢の全てに鹿角装が付けられていた事例は、本遺跡が初であった。 他に古墳人が装着しているものとは別にもう1領分の小札甲(2号甲)が見つかった。これは鉄製ではない小札で構成されており、発見当初は骨製と報じられたが、後に鹿角製と判明した。骨を使用した甲は大韓民国の夢村土城で類例があるが、日本国内の、また鹿角を利用した小札甲は初の発見例となった。 このほか周囲では、首飾りをした女性人骨1体(首飾りの古墳人)、幼児人骨1体(幼児の古墳人)、乳児人骨1体(乳児の古墳人)が発見された。「首飾りの古墳人」は、火砕流の直撃を受けて左足を軸に回転するようにうつ伏せに倒れていた。「乳児の古墳人」は頭骨しか残存していなかったが、「幼児の古墳人」は手足を大の字に広げて倒れており、皆火砕流に巻き込まれた被災者であった。 同年12月13~14日に取り上げ作業が行われた。形状を崩さないために樹脂でコーティングし、周囲の地面ごと切り離して回収された。
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出土状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 17:18 UTC 版)
太田川下流左岸の太田川に沿って南から北へ広がる標高60メートルから130メートルの丘陵尾根に存在する12基から成る古墳群である。1961年(昭和36年)に三角縁神獣鏡や甲冑類などが出土し、1979年(昭和54年)に保存目的で行われた発掘調査では、前方後円墳(第1号)1基、帆立貝式古墳(第4号)1基、円墳8基が見つかった。さらに、後に新たに円墳2基も発見された。 1号墳からは三角縁神獣鏡や甲冑類の他にも、古墳時代前期後半(4世紀後半)の車輪石や玉類、鉄斧等が出土した。2号墳からは、古墳時代中期前半(5世紀前半)の素文鏡・衝角付冑・鉄剣・蛇行剣形鉄製品・大刀・刀子・鎌・斧等様々なものが出土している。古墳群は、この地域における沖積平野と内海交通の役割を果たしたと考えられている。 データ名称中小田古墳群 指定国指定 種別史跡 種類古墳群 主な遺構古墳14基、竪穴住居跡3軒(弥生時代) 主な遺物三角縁神獣鏡、車輪石、鉄剣、鉄鏃 所在地広島市安佐北区口田町・口田南町・口田南 指定年月日1996年(平成4年)11月11日 アクセス「広島バスセンター」から「高陽方面行」のバスで「中小田」下車、東側丘陵上
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