峯ヶ塚古墳とは? わかりやすく解説

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みねがづか‐こふん【峯ヶ塚古墳】

読み方:みねがづかこふん

大阪府羽曳野(はびきの)市軽里にある、5世紀末から6世紀初頭古墳古市古墳群構成する前方後円墳で、長さ96メートル、高さ10メートル竪穴(たてあな)式石室から鉄刀馬具などが出土している。


古市古墳群
古室山古墳
赤面山古墳
大鳥塚古墳
助太山古墳
鍋塚古墳
城山古墳
峯ヶ塚古墳
墓山古墳
野中古墳
応神天皇陵古墳外濠外堤
鉢塚古墳
はざみ山古墳
青山古墳
蕃所山古墳

名称: 古市古墳群
 古室山古墳
 赤面山古墳
 大鳥塚古墳
 助太山古墳
 鍋塚古墳
 城山古墳
 峯ヶ塚古墳
 墓山古墳
 野中古墳
 応神天皇陵古墳外濠外堤
 鉢塚古墳
 はざみ山古墳
 青山古墳
 蕃所山古墳
ふりがな ふるいちこふんぐん
 こむろやまこふん せきめんやまこふん おおとりづかこふん すけたやまこふん なべすかこふん しろやまこふん みねがづかこふん はかやまこふん のなかこふん おうじんてんのうりょうこふんがいごうがいてい はちづかこふん はざみやまこふん あおやまこふん ばんしょやまこふん
種別 史跡
種別2:
都道府県 大阪府
市区町村 藤井寺市古室青山藤ヶ丘津堂野中藤井寺羽曳野市誉田軽里白鳥
管理団体
指定年月日 2001.01.29(平成13.01.29)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 古室山古墳は、応神天皇陵と同皇后仲津姫命陵との間に介在する前方後円墳で、前方部東北面し主軸長さ約160メートル有する宏壮な封土をなし周囲に堀の跡が存する墳丘殆んど開墾の厄にあっているが、よく旧規とどめている。附近赤面山古墳大鳥塚古墳助太山古墳鍋塚古墳がある。赤面山古墳古室山古墳後円部背後存する一辺長さ20メートル小形方形墳であり、大鳥塚古墳はその北に接して存する前方後円墳で、前方部を南に面し主軸長さ120メートル有し堀の跡をとどめている。助太山古墳古室山古墳東方存する方形墳で、一辺長さ36メートル有し一部に堀の跡を存している。鍋塚古墳古室山古墳東北方に存する仲津姫命陵の後円部背後見られる方形墳で、一辺長さ50メートル測る
これらはいずれ応神天皇陵中心とする道明寺古墳群中における顯著な古墳であり、わが国における古墳文化考察する上に重要な地位占めるものである
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峯ヶ塚古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 10:39 UTC 版)

峯ヶ塚古墳

墳丘(左に前方部、右奥に後円部)
所属 古市古墳群
所在地 大阪府羽曳野市軽里2丁目(峰塚公園内)
位置 北緯34度33分08.3秒 東経135度35分50.3秒 / 北緯34.552306度 東経135.597306度 / 34.552306; 135.597306
形状 前方後円墳
規模 全長96m、高さ10.5m
出土品 武器、武具、馬具、装身具、玉類、埴輪、男性人骨
築造時期 6世紀初頭
史跡 1974年(昭和49年)国指定
地図
峯ヶ塚古墳
大阪府内内の位置
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峯ヶ塚古墳(みねがづかこふん)は、大阪府羽曳野市軽里2丁目にある古墳。形状は前方後円墳古市古墳群世界文化遺産)を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている[1]

概要

墳丘の長さ96メートル、前方部の幅74.4メートル・高さ10.5メートル、後円部は直径56メートル・高さ9メートルの前方後円墳である。

江戸時代には、日本武尊白鳥陵に比定されていた(現在は、軽里大塚古墳を比定)。また、允恭天皇皇子の木梨軽皇子の墓との伝承もあった。

墳丘は二段に築かれており、二段目斜面の裾部分のみに数段の角礫が葺いてあるほかは、表面に葺石はみられない。

1992年(平成4年)の発掘調査で、後円部墳頂中央部の盗掘壙(とうくつこう)を掘り進めた結果、竪穴式石室が現れた。

石室や盗掘壙から、大刀鉄鏃などの武器、挂甲小札(けいこうこざね)などの武具、轡(くつわ)・(あぶみ)などの馬具、装身具、類などが大量に出土した。また、成人男性なども出土している。

出土した埴輪横穴式石室の特徴から、6世紀初頃(古墳時代後期)の築造と考えられている。

また、発掘調査により、峯ヶ塚古墳は二重濠をもつ古墳であることが判明した。内濠の幅約11メートル、内堤の幅約18メートル、外濠の幅約8メートル、墓域は総長約168メートル、幅約148メートルの大規模なものである。古墳時代後期には古墳が全般的に縮小傾向をみせるなかで、二重濠を持つ古墳を築造できた被葬者は大王級の権力のある人物であったと推測される。1974年(昭和49年)に国の史跡に指定された。

また1987年(昭和62年)には、峯ヶ塚古墳を含む5.3ヘクタールが地区公園として都市計画が決定され、現在は「峰塚公園」として整備されている[2]

発掘調査

  • 1987年~ 羽曳野市教育委員会
    • 1987年6月15日~8月4日 外濠の調査(第1次調査)
    • 1989年12月18日~12月25日 遺構現状調査と地通レーダー探査(第2次調査)
    • 1991年2月1日~3月30日 内濠の調査(第3次調査)
    • 1991年10月21日~1992年4月29日 後円部の調査(第4次調査)
    • (その後も、調査が行われている。)

アクセス

電車・バス

徒歩約15分 / 近鉄バス2駅4分-徒歩1分(最寄りのバス停「軽里一丁目」へは、西出口から羽曳野線81.82.85.87系統に乗車)

徒歩約35分 / 近鉄バス5駅8分-徒歩6分 (最寄りのバス停「羽曳山住宅」へは、南出口から羽曳野線60.61.62.66.78系統に乗車)

国道170号線「軽里北」交差点曲がってすぐ。隣接の「峰塚公園」に駐車場有り

脚注

  1. ^ 羽曳野市教育委員会事務局. “国指定/登録文化財”. 羽曳野市. 2021年11月22日閲覧。
  2. ^ 羽曳野市土木部道路公園課. “峰塚公園について”. 羽曳野市. 2021年11月22日閲覧。

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