後世の治定とは? わかりやすく解説

後世の治定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/11 04:19 UTC 版)

能褒野王塚古墳」の記事における「後世の治定」の解説

後世には墓の所在に関する所伝失われ近世以降には次の3説が生じている。 白鳥現在の白鳥1号墳鈴鹿市石薬師町三重県指定史跡)。帆立貝古墳武備塚(たけびづか、多気比塚)現在の武備古墳鈴鹿市長沢町)。日本武尊名代部と伝わる「建部たけるべ)」との関連想定別に吉備武彦大伴武日比定する説も存在した双子塚二子塚現在の双子塚1号墳鈴鹿市長沢町)。大碓命小碓命日本武尊)の双子伝承との関連想定江戸時代幕府による見解白鳥塚説であったと見られるが、享保年間1716年-1735年)に武備塚説が展開され明治期には双子塚説が展開された。 明治4年1871年)には伊勢神戸藩亀山藩それぞれ白鳥塚・双子塚日本武尊御墓認定して政府報告したが、明治9年1876年)までには教部省により白鳥塚に定められた。しかし明治12年1879年)には宮内省(現・宮内庁)により、上記3説のいずれでもなく埒外にあった丁子塚」(現在の能褒野王塚古墳)への治定改められた。その背景には、本古墳北勢地方最大規模前方後円墳であることが要因にあったと見られる。そして明治13年-18年1880年-1885年)に兆域確定と周堤修補実施された。さらに明治16年1883年)には地元有志によって墓の傍に神社造営企図され、明治28年1895年)に能褒野神社創建された。 なお、文献見える「のぼの(能褒野/能煩野/能裒野)」とは、鈴鹿山脈の野登山(ののぼりやま)山麓を指す地名推測される。この「のぼの」の地が選ばれ背景としては、化身白鳥が「天空のぼった」という物語が既に存在し後世その物語への付会として「のぼの」の地名結び付けられたとする説が挙げられている。また、通常「陵」の字は天皇・皇后太皇太后皇太后の墓、「墓」の字はその他皇族の墓に使用されるが、『日本書紀』『古事記』で「陵」と見えるのはヤマトタケル天皇準ずる位置づけられたことによる白鳥三陵の能褒野墓以外について、現在では大和のものは奈良県御所市富田河内のものは大阪府羽曳野市軽里軽里大塚古墳)に治定され、それぞれ白鳥陵しらとりのみささぎ)」と称される(「白鳥陵参照)。

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後世の治定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 02:35 UTC 版)

ヤマトタケル」の記事における「後世の治定」の解説

上記記述一方後世には墓の所伝失われ所在不明となった能褒野墓・大和白鳥陵河内白鳥陵それぞれに関して治定されるに至った経緯次の通り伊勢能褒野近世には白鳥塚(鈴鹿市石薬師町)・武備塚(鈴鹿市長沢町)・双子塚鈴鹿市長沢町)の3説があり、明治9年1876年)までには教部省により白鳥塚に定められたが、明治12年1879年)に宮内省(現・宮内庁)により3説のいずれでもない現墓の丁子塚(能褒野王塚古墳)に改定された。詳細は「能褒野王塚古墳」を参照。 なお「のぼの(能褒野/能煩野/能裒野)」とは、鈴鹿山脈の野登山(ののぼりやま)山麓を指す地名推測される。この「のぼの」の地が選ばれ背景としては、化身白鳥が「天空のぼった」という物語が既に存在し後世その物語への付会として「のぼの」の地名結び付けられたとする説が挙げられている。 大和白鳥陵古事記伝』では現陵に関する記述見える。明治9年1876年)に教部省により考定された。伊勢河内比べ小規模であることなどもあり、別に掖上鑵子塚古墳奈良県御所市柏原)に比定する説もある。「白鳥陵」も参照河内白鳥陵明治8年1875年)に教部省により伊岐宮(現・白鳥神社)の白鳥神社古墳考定されたが、明治13年1880年)に現陵(軽里大塚古墳/前の山古墳)に改定された。現陵は、『河内国陵墓図』では木梨軽太子の「軽之墓」と記されている。かつては西方峯ヶ塚古墳比定する説もあったという。「白鳥陵」および「軽里大塚古墳」も参照

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後世の治定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 15:46 UTC 版)

菟道稚郎子」の記事における「後世の治定」の解説

上記記録があるものの、江戸時代時点では墓の所在不明となっていた。享保18年1733年)には、『日本書紀』の記述に基づき古墳存在していないものの朝日山宇治上神社後背)の山頂墓所と見なされて墓碑建立が行なわれた(北緯3453分28.03秒 東経135度48分58.19秒 / 北緯34.8911194度 東経135.8161639度 / 34.8911194; 135.8161639 (朝日山山頂莵道郎子伝承地)))。上記丸山古墳治定されたのは明治22年1889年)で、以後現在まで宮内庁管理となっている。この地は宇治川東岸にあり、明治以前は「浮舟」と呼ばれる円丘であった。これは「山上」とする『日本書紀』伝承とは異なるという指摘もあったが、前方後円墳状に成形されて「宇治墓」とされた。 また上記の治定の際には、付近の小墳が賀陽豊年という人物埋葬した陪塚定められている。賀陽豊年は、『日本後紀弘仁6年815年)の記事にその死に関す記載がある人物である。その中で豊年宇治居た時に仁徳天皇菟道稚郎子の話を聞いて感動して地下之臣」になることを望んだといい、勅により「陵下」への埋葬許可されたと記されている。陪塚治定はこの記事の「陵」を郎子の墓にあてたことによるが、一方で仁徳天皇の陵とする解釈もある(通常「陵」は天皇陵、「墓」は皇族墓を指す)。 郎子散骨されたという伝承に関しては、前記した『続日本後紀』で中納言クラス藤原吉野把握していることが見えるものの、それ以外史書には記載がなく真偽は明らかではない。記事中では、郎子自身散骨命じて後世之に倣う」と記されているが、これを「後で命じられ通りにした」と解する見方と「郎子流例として散骨広まった」と解する見方がある。 なお、持統天皇5年691年)には有功王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃『日本書紀』『古事記』編纂並行して、『帝紀』や『旧辞』に基づいた墓の指定動きがあったと推測する説がある。またその際には、日本武尊墓(伊勢)・彦五瀬命墓(紀伊)・五十瓊敷入彦命墓(和泉)・菟道稚郎子墓(山城)をして大和国四至形成する意図があったとする説もある。 朝日山山頂墓碑賀陽豊年

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