白鳥陵とは? わかりやすく解説

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しらとり‐の‐みささぎ【白鳥陵】

読み方:しらとりのみささぎ

日本武尊(やまとたけるのみこと)の墓。死んで白鳥になったという伝説から名づけられた。伊勢国能褒野(のぼの)(三重県亀山市)の陵、大和国琴弾原(ことひきのはら)(奈良県御所(ごせ)市)の陵、河内(かわち)国旧市邑(ふるいちのむら)(大阪府羽曳野(はびきの)市)の陵の3か所をいう。はくちょうりょう


はくちょう‐りょう〔ハクテウ‐〕【白鳥陵】

読み方:はくちょうりょう

しらとりのみささぎ(白鳥陵)


白鳥陵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 00:57 UTC 版)

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白鳥陵(しらとりのみささぎ)は、ヤマトタケルの陵。

奈良県御所市富田と大阪府羽曳野市軽里(軽里大塚古墳)の2ヶ所に治定されている。

概要

ヤマトタケルが伊勢国能褒野で薨じ、同地に「陵」を造って葬ったことは、『古事記』『日本書紀』ともに一致するところであるが、さらに白鳥(『古事記』では「八尋白智鳥」)と化して西方に飛び、降り留まった地にあらたに「陵」を起こしたという記事は両書で異同がある。

『古事記』においては能褒野から白鳥となって飛び、河内国志幾に留まり、そこに「陵」を起こし、これを「白鳥陵」と呼んだが、のちここからまたも白鳥となって飛び、ついに昇天したという。 つまり『古事記』の白鳥陵は河内国志幾に営んだ「陵」である。

『日本書紀』巻第七によれば白鳥となって能褒野陵から出て、まず大和国琴弾原(奈良県御所市冨田)にとどまり、そこに「陵」を造ったところ、さらに白鳥となって河内国旧市邑にいきとどまったので、そこにも「陵」を造ったが、また白鳥となって天に上ったという。 『日本書紀』では最初の能褒野陵、大和琴弾原の「陵」、河内国旧市邑の「陵」と三陵を時人は「白鳥陵」とよんだという。

皇子の墓を「陵」というのは、『古事記』、『日本書紀』においてヤマトタケルの能褒野陵、2つの白鳥陵のみで、例外的である。

のちにヤマトタケルの墓を「能褒野墓」と定め、また『日本書紀』の所伝をも尊重し、「白鳥陵」2つを能褒野墓に附属するものとした。

備考

  • 続日本紀大宝2年(702年)8月8日条に、「倭建命の墓に落雷があったので、使いを遣わして鎮祭をした」と記述がみられる。

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