古典史料の記述とは? わかりやすく解説

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古典史料の記述

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 15:22 UTC 版)

出石神社」の記事における「古典史料の記述」の解説

記紀における出石神宝内訳古事記日本書紀垂仁3年本文日本書紀垂仁3年別伝日本書紀垂仁88年条珠2貫 羽太玉 葉細珠 羽太玉 浪振比礼 足高足高足高玉 浪切比礼 鹿鹿赤石鹿鹿赤石鹿鹿赤石玉 風比礼 出石小刀 出石刀子 出石小刀 風切比礼 出石 出石 奥津鏡 日鏡 日鏡 日鏡 辺津鏡 熊神籬 熊神籬 熊神籬 胆狭浅大刀 計8種計7種計8種計6種 出石神社祭祀は、『古事記』『日本書紀』などの記す天日槍あめのひぼこ、天之日矛/天日伝説との深い関わり知られるそのうち『古事記』応神天皇記では、天之日矛新羅王子であり、その昔応神天皇以前)に日本渡来したとする。そしてその渡来経緯として、天之日矛は妻を追って日本渡来し難波着こうとしたが着けなかったため、新羅帰ろう但馬国停泊していたが、そのまま但馬国留まり多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶って子孫儲けたという。また天之日矛は「玉津宝(たまつたから)」と称される神宝8種を将来し、それらは「伊豆志之八前大神(いづしのやまえのおおかみ)」と称されるとする。続けて、その伊豆大神の娘の伊豆志袁登売神(いづしおとめのかみ、出石乙女)の神婚譚が記される対して『日本書紀』垂仁天皇3年条では、天日槍同じく新羅王子とした上で垂仁天皇(第11代)の時に渡来したとし、天日槍将来した7物を但馬国納めて永く神宝としたとする。また同条の別伝では、日本渡来した天日槍初め神宝8種を天皇献上したとし、さらに天皇から居住地として提示され播磨国宍粟邑と淡路島出浅邑は固辞したうえで、近江国若狭国経て但馬国至り、そこで但馬国出島出石に同じ)の太耳の娘の麻多烏(またお)を娶り、子孫儲けたとする。そのほか『日本書紀』垂仁天皇88年条では、天日槍将来した神宝見たい天皇欲したので、曾孫の清彦に5物を献上させたとする。この時に5物とは別に出石という名の小刀1口があり、清彦は献上を望まず隠していた。清彦は結局これを献上したが、のちに自然と消え淡路島発見され祠に祀られたという。続けて系譜として、天日槍但馬国前津耳(さきつみみ)の娘の麻拖能烏(またのお)を娶り、子孫儲けた記される。以上の一方『日本書紀』では『古事記』あるよう出石に関する具体的な記述はない。 天日槍伝説および関連伝承は、『古事記』『日本書紀』のほかにも『播磨国風土記』や『筑前国風土記逸文・『摂津国風土記逸文・『古語拾遺』などでも見られるそのうち播磨国風土記』では、天日槍客神渡来神)に位置づけ葦原志許乎命や伊和大神播磨国一宮伊和神社兵庫県宍粟市祭神)との間で播磨国の国占め競う姿が記されている。また『古語拾遺でも、新羅皇子の「海檜」の渡来について「今在但馬国出石郡大社」と見え、ここでも天日槍出石との深い関わり記される

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古典史料の記述

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/11 04:19 UTC 版)

能褒野王塚古墳」の記事における「古典史料の記述」の解説

ヤマトタケル埋葬に関して『日本書紀』景行天皇紀では、日本武尊は「能褒野」で没し、それを聞いた天皇官人命じて伊勢国の「能褒野陵(のぼののみささぎ)」に埋葬させた。しかし日本武尊白鳥となって飛び立ち、倭の琴弾原(ことひきはら)、次いで河内旧市邑(ふるいちのむら、古市邑)に留まったのでそれぞれの地に陵が造られた。そしてこれら3陵をして「白鳥陵しらとりのみささぎ)」と称し、これらには日本武尊衣冠埋葬されたとするその後仁徳天皇60年条において、「白鳥陵」(上記3陵を指すものか)は空である旨と、天皇白鳥陵の陵守廃止思い止まった旨の伝承記載される一方『古事記』景行天皇段では、倭建命はやはり伊勢の「能煩野」で没したとし、倭建命の后・子らは能煩野に下向して陵を造ったとする。しかし倭建命は白い千鳥となって伊勢国から飛び立ち河内国の志幾(しき)に留まったので、その地に陵を造り白鳥御陵しらとりのみささぎ)」と称したという。延長5年927年成立の『延喜式諸陵寮諸陵式)では「能裒野墓」の名称で記載され伊勢国鈴鹿郡所在で、兆域は東西2町・南北2町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する伊勢国では唯一の陵墓)。 ヤマトタケル元より実在する人物ではなく『日本書紀』『古事記』伝え伝説各地の伝承1人人格にまとめたものとされるが、ヤマトタケル伝説創出伴ってその墓も創出されたものと見られている。確かな史料の上では、持統天皇5年691年)において有功王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃『日本書紀』『古事記』編纂並行して、『帝紀』や『旧辞』に基づいた墓の指定動きがあったと推測する説がある。またその際には、日本武尊墓(伊勢)・彦五瀬命墓(紀伊)・五十瓊敷入彦命墓(和泉)・菟道稚郎子墓(山城)をして大和国四至形成する意図があったとする説もある。 その後大宝2年702年)には「震倭建命墓。遣使祭之」と見え鳴動落雷別説地震)のあったヤマトタケルの墓(能褒野墓か)に使い遣わされている。さらに『大宝令官員令の別記付属法令)には、伊勢国に借墓守3戸の設置記されており、8世紀初頭には諸陵司管轄にあった見られている。その後前述の『延喜式』では白鳥三陵のうち「能裒野墓」のみが記載され10世紀前半頃までの管理祭祀継続認められる

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古典史料の記述

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 02:35 UTC 版)

ヤマトタケル」の記事における「古典史料の記述」の解説

ヤマトタケルの墓に関する記録地域日本書紀古事記延喜式現在の治定伊勢 能褒野陵 能煩野に陵 能裒野墓 能褒野大和 琴弾原に陵 (記載なし) (記載なし) 白鳥陵 河内 旧市邑に陵 志幾に陵(白鳥御陵) (記載なし) 白鳥陵 備考 3陵の総称として白鳥陵」とする ヤマトタケル埋葬について、『日本書紀』『古事記』・『延喜式』に見え記述次の通り日本書紀景行天皇40年是歳条では、日本武尊は「能褒野」で没し、それを聞いた天皇官人命じて伊勢国の「能褒野陵(のぼののみささぎ)」に埋葬させた。しかし日本武尊白鳥となって飛び立ち、倭の琴弾原(ことひきはら)、次いで河内旧市邑(ふるいちのむら、古市邑)に留まったのでそれぞれの地に陵が造られた。そしてこれら3陵をして「白鳥陵しらとりのみささぎ)」と称し、これらには日本武尊衣冠埋葬されたという。 仁徳天皇60年条では、「白鳥陵」(上記3陵を指すものか)は空である旨と、天皇白鳥陵の陵守廃止思い止まった旨が記されている。 古事記景行天皇記では、倭建命伊勢の「能煩野」で没したとし、倭建命の后・子らが能煩野に下向して陵を造ったとする。しかし倭建命は白い千鳥となって伊勢国から飛び立ち河内国の志幾(しき)に留まったので、その地に陵を造り白鳥御陵しらとりのみささぎ)」と称したという。 延喜式延長5年927年成立諸陵寮諸陵式)では「能裒野墓」の名称で記載され伊勢国鈴鹿郡所在で、兆域は東西2町・南北2町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する伊勢国では唯一の陵墓)。一方で白鳥陵記載はない。 通常「陵」の字は天皇・皇后太皇太后皇太后の墓、「墓」の字はその他皇族の墓に使用されるが、『日本書紀』『古事記』で「陵」と見えるのはヤマトタケル天皇準ずる位置づけられたことによる(現在は能褒野のみ「墓」の表記)。 ヤマトタケル実在性が低いとする論者からは、ヤマトタケルの墓はヤマトタケル伝説創出伴って創出されたとする説を唱えている。確かな史料の上では、持統天皇5年691年)において有功王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃『日本書紀』『古事記』編纂並行して、『帝紀』や『旧辞』に基づいた墓の指定動きがあったと推測する説がある。またその際には、日本武尊墓(伊勢)・彦五瀬命墓(紀伊)・五十瓊敷入彦命墓(和泉)・菟道稚郎子墓(山城)をして大和国四至形成する意図があったとする説もある。一方ヤマトタケル実在認め論者からは、ヤマトタケル活動した年代築造後すぐに管理放棄されていることなどから、現允恭天皇陵に治定されている津堂城山古墳を真陵と見る説が唱えられている。 その後大宝2年702年)には「震倭建命墓。遣使祭之」と見え鳴動落雷別説地震)のあったヤマトタケルの墓(能褒野墓か)に使い遣わされている。さらに『大宝令官員令の別記付属法令)には、伊勢国に借墓守3戸の設置記されており、8世紀初頭には「能裒野墓」が諸陵司管轄にあった見られている。その後前述の『延喜式』では白鳥三陵のうち「能裒野墓」のみが記載され10世紀前半頃までの管理祭祀継続認められる

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