古典史料の記述
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記紀における出石神宝の内訳古事記日本書紀垂仁3年条本文日本書紀垂仁3年条別伝日本書紀垂仁88年条珠2貫 羽太玉 葉細珠 羽太玉 浪振比礼 足高玉 足高珠 足高玉 浪切比礼 鵜鹿鹿赤石玉 鵜鹿鹿赤石珠 鵜鹿鹿赤石玉 風振比礼 出石小刀 出石刀子 出石小刀 風切比礼 出石桙 出石槍 奥津鏡 日鏡 日鏡 日鏡 辺津鏡 熊神籬 熊神籬 熊神籬 胆狭浅大刀 計8種計7種計8種計6種 出石神社の祭祀は、『古事記』や『日本書紀』などの記す天日槍(あめのひぼこ、天之日矛/天日桙)伝説との深い関わりで知られる。そのうち『古事記』応神天皇記では、天之日矛は新羅王子であり、その昔(応神天皇以前)に日本に渡来したとする。そしてその渡来の経緯として、天之日矛は妻を追って日本に渡来し難波に着こうとしたが着けなかったため、新羅に帰ろうと但馬国に停泊していたが、そのまま但馬国に留まり多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶って子孫を儲けたという。また天之日矛は「玉津宝(たまつたから)」と称される神宝8種を将来し、それらは「伊豆志之八前大神(いづしのやまえのおおかみ)」と称されるとする。続けて、その伊豆志大神の娘の伊豆志袁登売神(いづしおとめのかみ、出石乙女)の神婚譚が記される。 対して『日本書紀』垂仁天皇3年条では、天日槍を同じく新羅王子とした上で、垂仁天皇(第11代)の時に渡来したとし、天日槍は将来した7物を但馬国に納めて永く神宝としたとする。また同条の別伝では、日本に渡来した天日槍は初め神宝8種を天皇に献上したとし、さらに天皇から居住地として提示された播磨国宍粟邑と淡路島出浅邑は固辞したうえで、近江国・若狭国を経て但馬国に至り、そこで但馬国出島(出石に同じ)の太耳の娘の麻多烏(またお)を娶り、子孫を儲けたとする。そのほか『日本書紀』垂仁天皇88年条では、天日槍の将来した神宝を見たいと天皇が欲したので、曾孫の清彦に5物を献上させたとする。この時に5物とは別に「出石」という名の小刀1口があり、清彦は献上を望まず隠していた。清彦は結局これを献上したが、のちに自然と消え、淡路島で発見され祠に祀られたという。続けて系譜として、天日槍は但馬国の前津耳(さきつみみ)の娘の麻拖能烏(またのお)を娶り、子孫を儲けたと記される。以上の一方、『日本書紀』では『古事記』にあるような出石神に関する具体的な記述はない。 天日槍伝説および関連伝承は、『古事記』・『日本書紀』のほかにも『播磨国風土記』や『筑前国風土記』逸文・『摂津国風土記』逸文・『古語拾遺』などでも見られる。そのうち『播磨国風土記』では、天日槍を客神(渡来神)に位置づけ、葦原志許乎命や伊和大神(播磨国一宮の伊和神社(兵庫県宍粟市)祭神)との間で播磨国の国占めを競う姿が記されている。また『古語拾遺』でも、新羅皇子の「海檜槍」の渡来について「今在但馬国出石郡為大社」と見え、ここでも天日槍と出石との深い関わりが記される。
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古典史料の記述
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ヤマトタケルの埋葬に関して『日本書紀』景行天皇紀では、日本武尊は「能褒野」で没し、それを聞いた天皇は官人に命じて伊勢国の「能褒野陵(のぼののみささぎ)」に埋葬させた。しかし日本武尊は白鳥となって飛び立ち、倭の琴弾原(ことひきはら)、次いで河内の旧市邑(ふるいちのむら、古市邑)に留まったのでそれぞれの地に陵が造られた。そしてこれら3陵をして「白鳥陵(しらとりのみささぎ)」と称し、これらには日本武尊の衣冠が埋葬されたとする。その後は仁徳天皇60年条において、「白鳥陵」(上記3陵を指すものか)は空である旨と、天皇が白鳥陵の陵守廃止を思い止まった旨の伝承が記載される。一方『古事記』景行天皇段では、倭建命はやはり伊勢の「能煩野」で没したとし、倭建命の后・子らは能煩野に下向して陵を造ったとする。しかし倭建命は白い千鳥となって伊勢国から飛び立ち、河内国の志幾(しき)に留まったので、その地に陵を造り「白鳥御陵(しらとりのみささぎ)」と称したという。延長5年(927年)成立の『延喜式』諸陵寮(諸陵式)では「能裒野墓」の名称で記載され、伊勢国鈴鹿郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する(伊勢国では唯一の陵墓)。 ヤマトタケルは元より実在する人物ではなく、『日本書紀』や『古事記』の伝える伝説は各地の伝承を1人の人格にまとめたものとされるが、ヤマトタケル伝説の創出に伴ってその墓も創出されたものと見られている。確かな史料の上では、持統天皇5年(691年)において有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に『日本書紀』・『古事記』の編纂と並行して、『帝紀』や『旧辞』に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説がある。またその際には、日本武尊墓(伊勢)・彦五瀬命墓(紀伊)・五十瓊敷入彦命墓(和泉)・菟道稚郎子墓(山城)をして大和国の四至を形成する意図があったとする説もある。 その後、大宝2年(702年)には「震倭建命墓。遣使祭之」と見え、鳴動(落雷、別説に地震)のあったヤマトタケルの墓(能褒野墓か)に使いが遣わされている。さらに『大宝令』官員令の別記(付属法令)には、伊勢国に借墓守3戸の設置が記されており、8世紀初頭には諸陵司の管轄下にあったと見られている。その後、前述の『延喜式』では白鳥三陵のうち「能裒野墓」のみが記載され、10世紀前半頃までの管理・祭祀の継続が認められる。
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古典史料の記述
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ヤマトタケルの墓に関する記録地域日本書紀古事記延喜式現在の治定伊勢 能褒野陵 能煩野に陵 能裒野墓 能褒野墓 大和 琴弾原に陵 (記載なし) (記載なし) 白鳥陵 河内 旧市邑に陵 志幾に陵(白鳥御陵) (記載なし) 白鳥陵 備考 3陵の総称として「白鳥陵」とする ヤマトタケルの埋葬について、『日本書紀』・『古事記』・『延喜式』に見える記述は次の通り。 日本書紀景行天皇40年是歳条では、日本武尊は「能褒野」で没し、それを聞いた天皇は官人に命じて伊勢国の「能褒野陵(のぼののみささぎ)」に埋葬させた。しかし日本武尊は白鳥となって飛び立ち、倭の琴弾原(ことひきはら)、次いで河内の旧市邑(ふるいちのむら、古市邑)に留まったのでそれぞれの地に陵が造られた。そしてこれら3陵をして「白鳥陵(しらとりのみささぎ)」と称し、これらには日本武尊の衣冠が埋葬されたという。 仁徳天皇60年条では、「白鳥陵」(上記3陵を指すものか)は空である旨と、天皇が白鳥陵の陵守廃止を思い止まった旨が記されている。 古事記景行天皇記では、倭建命は伊勢の「能煩野」で没したとし、倭建命の后・子らが能煩野に下向して陵を造ったとする。しかし倭建命は白い千鳥となって伊勢国から飛び立ち、河内国の志幾(しき)に留まったので、その地に陵を造り「白鳥御陵(しらとりのみささぎ)」と称したという。 延喜式(延長5年(927年)成立)諸陵寮(諸陵式)では「能裒野墓」の名称で記載され、伊勢国鈴鹿郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する(伊勢国では唯一の陵墓)。一方で白鳥陵の記載はない。 通常「陵」の字は天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓、「墓」の字はその他皇族の墓に使用されるが、『日本書紀』や『古事記』で「陵」と見えるのはヤマトタケルが天皇に準ずると位置づけられたことによる(現在は能褒野のみ「墓」の表記)。 ヤマトタケルの実在性が低いとする論者からは、ヤマトタケルの墓はヤマトタケル伝説の創出に伴って創出されたとする説を唱えている。確かな史料の上では、持統天皇5年(691年)において有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に『日本書紀』・『古事記』の編纂と並行して、『帝紀』や『旧辞』に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説がある。またその際には、日本武尊墓(伊勢)・彦五瀬命墓(紀伊)・五十瓊敷入彦命墓(和泉)・菟道稚郎子墓(山城)をして大和国の四至を形成する意図があったとする説もある。一方、ヤマトタケルの実在を認める論者からは、ヤマトタケルが活動した年代や築造後すぐに管理が放棄されていることなどから、現允恭天皇陵に治定されている津堂城山古墳を真陵と見る説が唱えられている。 その後、大宝2年(702年)には「震倭建命墓。遣使祭之」と見え、鳴動(落雷、別説に地震)のあったヤマトタケルの墓(能褒野墓か)に使いが遣わされている。さらに『大宝令』官員令の別記(付属法令)には、伊勢国に借墓守3戸の設置が記されており、8世紀初頭には「能裒野墓」が諸陵司の管轄下にあったと見られている。その後、前述の『延喜式』では白鳥三陵のうち「能裒野墓」のみが記載され、10世紀前半頃までの管理・祭祀の継続が認められる。
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