現在の治定
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江戸時代後期の地誌『三国名勝図会』では内之浦(現在の肝付町)の北方村国見岳がその所在地とされた。 明治元年に三島通庸らが、明治3年に田中頼庸らが、1873年(明治6年)に樺山資雄がそれぞれ調査し、翌1874年(明治7年)7月10日、当時の政府によって溝辺村(現在の霧島市)の神割岡がホオリの陵と定められ整備された。 これは、古事記の「高千穂山の西」という記述に基づいて「高千穂山」を高千穂峰とみなし、高千穂峰の西に神割岡がありその近くに天津日高彦火火出見尊(ホオリ)を祀る「鷹大明神社」(鷹屋神社)があって、正保6年(1649年)の棟札に鷹屋大明神と記されていたことから「鷹」を「高屋」の「タカ」と結びつけたもの(鷹屋=高屋である)と考えられている(社伝によるとこの鷹屋神社は、往古は高屋山陵下の神割岡の一角に鎮座していたが、住民が神威を畏れ応永18年(1411年)に現在地に遷座されたという)。 1874年(明治7年)、宮内省により、可愛山陵(えのみささぎ)、高屋山上陵(たかやのやまの えのみささぎ)、吾平山上陵(あひらのやまの えのみささぎ)が治定されたとき、高屋山上陵は鹿児島県霧島市溝辺町麓の墳墓に治定された。 御陵は標高390mの神割岡の頂にある。陵形は円墳で、鳥居と柵で仕切られた御拝所の正面から約60m上の山頂に築かれているという。山陵全体の敷地面積は約53,000平方メートルある。 明治5年5月23日に明治天皇が、1907年(明治40年)10月28日に当時の皇太子(大正天皇)の代理として侍従の有馬純文がそれぞれ参拝した。1920年(大正9年)3月30日には当時の皇太子(昭和天皇)が東郷平八郎を伴って参拝している。1940年代に皇紀2600年記念事業の一つとして東側からの参道が整備された。1962年(昭和37年)5月には当時の皇太子(明仁上皇)と皇太子妃(上皇后美智子)が参拝した。 鷹屋神社(霧島市溝辺町麓)神威をおそれて高屋山上陵付近から遷座したという。
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現在の治定
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1874年(明治7年)7月10日、宮内省により、鹿児島県鹿屋市の吾平町上名にある皇族陵が、吾平山上陵に治定された。 「鵜戸の窟」とも呼ばれており全国でも珍しい岩屋の陵で、この窟のある山は鵜戸山と呼ばれている。洞窟の中に高さ1.3m、周囲5mと、高さ0.9m、周囲3mの底が盤石で覆われている円形の塚が二つあるとされる。 「小伊勢」ともいわれ、1935年(昭和10年)には昭和天皇が、1962年(昭和37年)には皇太子(第125代天皇上皇明仁)・皇太子妃(上皇后美智子)が参拝している。1936年(昭和11年)に建立された昭和天皇の参拝記念碑は、1938年(昭和13年)10月15日の水害(肝属川を参照)で流出したが、1990年(平成2年)に河川整備事業の最中に発見され再び建立された。 山陵内には「鵜戸六社権現」があったが、1871年(明治4年)の災害により現在地(鹿屋市吾平総合支所⦅旧吾平町役場⦆の南隣)に遷座し、名称も鵜戸神社に改められている。
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