現在の治定とは? わかりやすく解説

現在の治定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 05:59 UTC 版)

高屋山上陵」の記事における「現在の治定」の解説

江戸時代後期地誌三国名勝図会』では内之浦現在の肝付町)の北方村国見岳がその所在地とされた。 明治元年三島通庸らが、明治3年田中頼庸らが、1873年明治6年)に樺山資雄それぞれ調査し、翌1874年明治7年7月10日当時政府によって溝辺村現在の霧島市)の神割岡がホオリの陵と定められ整備された。 これは、古事記の「高千穂山の西」という記述基づいて高千穂山」を高千穂峰とみなし、高千穂峰の西に神割岡がありその近く天津日高彦火火出見尊ホオリ)を祀る大明神社」(鷹屋神社)があって、正保6年1649年)の棟札大明神記されていたことから「」を「高屋」の「タカ」と結びつけたもの屋=高屋である)と考えられている(社伝によるとこの鷹屋神社は、往古高屋山陵下の神割岡の一角鎮座していたが、住民神威畏れ応永18年1411年)に現在地遷座されたという)。 1874年明治7年)、宮内省により、可愛山陵(えのみささぎ)、高屋山上陵(たかやのやまの えのみささぎ)、吾平山上陵(あひらのやまの えのみささぎ)が治定されたとき、高屋山上陵鹿児島県霧島市溝辺町麓墳墓治定された。 御陵標高390mの神割岡の頂にある。陵形は円墳で、鳥居と柵で仕切られ御拝所正面から約60m上山頂築かれているという。山陵全体敷地面積は約53,000平方メートルある。 明治5年5月23日明治天皇が、1907年明治40年10月28日当時皇太子大正天皇)の代理として侍従有馬純文それぞれ参拝した1920年大正9年3月30日には当時皇太子昭和天皇)が東郷平八郎伴って参拝している。1940年代皇紀2600年記念事業一つとして東側からの参道整備された。1962年昭和37年5月には当時皇太子明仁上皇)と皇太子妃上皇后美智子)が参拝した鷹屋神社霧島市溝辺町麓神威おそれて高屋山上陵付近から遷座したという。

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現在の治定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 02:22 UTC 版)

吾平山上陵」の記事における「現在の治定」の解説

1874年明治7年7月10日宮内省により、鹿児島県鹿屋市吾平町上名にある皇族陵が、吾平山上陵治定された。 「戸の窟」とも呼ばれており全国でも珍しい岩屋の陵で、この窟のある山は戸山呼ばれている。洞窟中に高さ1.3m、周囲5mと、高さ0.9m、周囲3mの底が盤石覆われている円形の塚が二つあるとされる。 「小伊勢」ともいわれ、1935年昭和10年)には昭和天皇が、1962年昭和37年)には皇太子第125代天皇上皇明仁)・皇太子妃上皇后美智子)が参拝している。1936年昭和11年)に建立され昭和天皇参拝記念碑は、1938年昭和13年10月15日水害肝属川参照)で流出したが、1990年平成2年)に河川整備事業最中発見され再び建立された。 山陵内には「戸六社権現」があったが、1871年明治4年)の災害により現在地鹿屋市吾平総合支所⦅旧吾平町役場⦆の南隣)に遷座し、名称も鵜戸神社改められている。

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