大正天皇とは?

たいしょうてんのう たいしやう -わう 【大正天皇】 ○

1879~1926第一二三天皇在位1912~1926)。名は嘉仁よしひと)。明治天皇第三皇子1921年大正10以後裕仁ひろひと親王摂政として政務を執らせた。

大正天皇 (たいしょうてんのう)

1879〜1926 (明治12年昭和元年)
天皇史上最初東京生まれ天皇生まれつき病弱のため、短命に終わる。
在位1912.7.30?26.12.25 明治天皇第三皇子。名は嘉仁(よしひと)。幼称は明宮はるのみや)。1889年明治22皇太子となる。1900年公爵九条道孝四女節子(さだこ)(貞明皇后)と結婚、この年から地方巡啓として、日本各地訪問12年大正元)7月明治天皇崩御により皇位につき、大正改元された。幼時から病弱で、一時健康を取り戻したかに見えたが、即位後は再び体調を崩すことが多くなった。21年皇太子裕仁親王摂政任命26年12月葉山御用邸崩御御陵八王子多摩陵。

 年(和暦)
1882年 (明治15年) 上野動物園開園 3才
1883年 (明治16年) 鹿鳴館完成 4才
1889年 (明治22年) 大日本帝国憲法発布 10
1894年 (明治27年) 日清戦争 15才
1903年 (明治36年) 江戸開府300年 24
1904年 (明治37年) 日露戦争 25
1907年 (明治40年) 足尾銅山暴動 28
1910年 (明治43年) 韓国併合 31
1918年 (大正7年) 米騒動 39
1923年 (大正12年) 関東大震災 44


 人物
福田 徳三 1874年1930年 (明治7年昭和5年) +5
上田 敏 1874年1916年 (明治7年大正5年) +5
長谷川 如是閑 1875年1969年 (明治8年昭和44年) +4
荒木 貞夫 1877年1966年 (明治10年昭和41年) +2
寺田 寅彦 1878年1935年 (明治11年昭和10年) +1
大河内 正敏 1878年1952年 (明治11年昭和27年) +1
吉田 茂 1878年1967年 (明治11年昭和42年) +1
有島 武郎 1878年1923年 (明治11年大正12年) +1
鏑木 清方 1878年1972年 (明治11年昭和47年) +1
永井 荷風 1879年1959年 (明治12年昭和34年) 0
市川 左団次二世 1880年1940年 (明治13年昭和15年) -1
石井 柏亭 1882年1958年 (明治15年昭和33年) -3
福原 信三 1883年1948年 (明治16年昭和23年) -4
高村 光太郎 1883年1956年 (明治16年昭和31年) -4
鳩山 一郎 1883年1959年 (明治16年昭和34年) -4
石橋 湛山 1884年1973年 (明治17年昭和48年) -5
東条 英機 1884年1948年 (明治17年昭和23年) -5
安田 靫彦 1884年1978年 (明治17年昭和53年) -5
三浦 環 1884年1946年 (明治17年昭和21年) -5
武者小路 実篤 1885年1976年 (明治18年昭和51年) -6

大正天皇 多摩陵
(たいしょうてんのう たまのみささぎ)

御陵写真 陵印
代   数 :第123
天 皇 名 :大正天皇
たいしょうてんのう
御   父 明治天皇
御   母 柳原愛子
御 陵 名 多摩
(たまのみささぎ
陵   形 :上円下方
所 在 地 東京都八王子市長房町  武蔵陵墓地
交通機関等 JR京王高尾北口下車  東へ1.5km
陵印保管場所 多摩陵墓監区事務所

大正天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/01 09:33 UTC 版)

大正天皇(たいしょうてんのう、1879年明治12年〉8月31日 - 1926年大正15年〉12月25日)は、日本の第123代天皇(在位:1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日 - 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日)。嘉仁(よしひと)、称号明宮(はるのみや)。お印(じゅ)[2]




注釈

  1. ^ 嘉仁親王が軍隊用の背嚢に学用品を入れて通学したことがランドセルの始まりとされている[17]
  2. ^ 表向きの理由は同年6月の地震で校舎が破損し授業に支障を来したこととされた[23]
  3. ^ 1891年4月3日に招かれたのは、 伏見宮禎子女王、北白川宮満子女王(北白川宮能久親王娘)、北白川宮貞子女王(同前)、九条籌子(かずこ。九条道孝娘)、九条節子(同前)、徳川国子(徳川慶喜娘)、徳川経子(同前)、徳川絲子(同前)、毛利万子(かずこ。毛利元徳娘)、岩倉米子(岩倉具定娘)の10名。その他、久邇宮純子女王久邇宮朝彦親王娘)、一条経子(一条実輝娘)、鷹司房子(鷹司煕通娘)の三人も候補とされた[35]
  4. ^ 飛鳥井雅道は皇室典範で皇位継承を嫡出子優先としたこと、国が一夫一妻制を奨励していたことが理由と指摘している[46]
  5. ^ この結婚式を模倣して神前結婚式が誕生し、日本全国に広まっていった[48]
  6. ^ 高崎行啓時に予定の道筋を取らず好き勝手に人力車を走らせたり、新潟では当日になって訪問先を変更させ、周囲を狼狽させたりした[56]
  7. ^ 実際には明治天皇は7月29日午後10時43分に没したが、践祚までの準備時間が足りないため公式には7月30日午前0時43分死去とされた[71]
  8. ^ なお節子皇后は第四子(三笠宮)懐妊中のため即位礼を欠席した。またこのとき製作された高御座と御帳台は昭和・平成・令和3代の即位礼でも使用されている[76][77]
  9. ^ 皇居の居住部は明治天皇の希望で照明がろうそくのみであったが、電灯が付けられ、スチーム暖房が導入された[89]
  10. ^ 山本権兵衛は財部彪に、大正天皇の考えといっても、明治天皇のそれと異なる。たとえ大正天皇の命であっても国家のためにならないと判断すれば従わないほうが忠誠を尽くすことになる、と語っていた[90]
  11. ^ 摂政任命の詔書は大正天皇が署名できないため、皇太子が代筆した[110]
  12. ^ この摂政就任に関し、原武史は牧野伸顕ら宮内官僚による「主君押込」説を主張した[111]が、古川隆久は政治家から皇族まで全関係者が同意した点を挙げ原武史説を批判した[112]
  13. ^ このホームは御用邸に向かう大正天皇が人目に触れないよう建設されたもの[116]で、大正天皇が生前このホームを使ったのはこれが最初で最後であった[120]
  14. ^ このとき将棋倒しで死者2人、重傷者14人、その他計300人の負傷者が出た[138]
  15. ^ 太平洋戦争終戦まで皇族参拝用に使用された後、八王子市に払い下げられ、集会所「陵南会館」として使用されたが、1990年平成2年)に天皇即位の礼と大嘗祭に反対する過激派に爆破され焼失した(八王子市陵南会館爆破事件[141]
  16. ^ 陵墓予定地内には地元の墓地数か所に計587基の墓があったが、強制移転させられている[144]
  17. ^ 梶山季之が黒田長敬に取材したとされる[154]
  18. ^ 1892年 - 1965年。旧姓・久世。源氏名「桜木」。昭憲皇太后に仕えた。夫は山川黙[156]
  19. ^ 1892年 - 1980年。源氏名「椿」[159]
  20. ^ 当時の蕎麦屋の2階では男女が逢引したり売春することもあった[164]
  21. ^ 第2位が後光明天皇の98首、第3位が嵯峨天皇の97首[174]
  22. ^ 鍋島伊都子は美人として評判で、当時梨本宮守正王と婚約中であった[186]
  23. ^ 皇后の父・九条道孝が危篤との電報を受けた帰京であったが、道孝は無事で皇后は9日後に日光に戻っている[187]
  24. ^ 大正天皇が側室を持たなかった理由は諸説ある。天皇・皇后がともに庶子であったことから側室制度の廃止を願っていたとする説、貞明皇后が早々に複数の男子を産んだことから結果的に一夫一妻になったとする説、近代家族の姿が広まるという時代状況を踏まえた天皇・皇后の意思によるとする説などがある[191]
  25. ^ なお宮内省では同時期に『明治天皇紀』(1933年完成)や歴代天皇・皇族の記録である『天皇皇族実録』も編纂されていた[210]

出典

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