死後の評価と「遠眼鏡事件」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 00:20 UTC 版)
「大正天皇」の記事における「死後の評価と「遠眼鏡事件」」の解説
国内外の死亡記事では、大正年間に日本の国際的地位が高まったこと、政治制度や文化など近代化の一層の進展が大正天皇の功績として挙げられていた。 やがてその評価は、追悼本として知られる限り唯一市販された『大正天皇御治世史』や、若槻礼次郎首相の弔辞で用いられた「守成の君主」に落ち着いた。とは言え明治天皇との対比として、大正天皇を偲び記念する運動はほとんどなく、誕生日は祝日とならず、大正神宮も造られなかった。 そして社会に広く定着したのは、「大正天皇が帝国議会の開院式で勅書をくるくると丸め、遠眼鏡にして議員席を見渡した」とされる「遠眼鏡事件」に代表されるような「大正天皇精神病者説」であり、その風説は少なくとも昭和初期には一般大衆の間で広まっていた。1944年(昭和19年)に遠眼鏡事件の噂を語った男が不敬罪で捕まっているほか、1921年に小学2年生であった丸山眞男は、当時、「大正天皇が脳を患っており、勅書を丸めて覗いた」という噂が流れていたことを1989年(平成元年)のエッセイで回想している。 第二次世界大戦後遠眼鏡事件が公然と語りだされるのは、左翼運動が広がった昭和30年代に集中している。一つは「文藝春秋」1959年(昭和34年)2月号掲載の無署名記事「悲劇の天皇・大正天皇」で、黒田長敬侍従の、1920年頃に大正天皇が勅書朗読後にうまく巻けたか透かして見た、という証言を載せた。また、元女官の山川三千子は、1960年(昭和35年)の著書『女官』に、大正天皇が初めて帝国議会開会式に臨んだ1912年に、姑の弟である山川健次郎が遠眼鏡として覗いた光景を目撃した話をしていたと記している。 この遠眼鏡事件については諸説あるが、日本大学文理学部教授で歴史学者の古川隆久は、自著で「決定的な史料はなく単なる虚偽が伝わったもの」と主張している。 そのほか、大正天皇・貞明皇后に仕えた元女官の梨木登女子は、大正天皇が、あるとき勅書が逆に巻いてあったため、その次の際、巻き方が間違っていないか遠眼鏡のように覗き込んで確認したという話を大正天皇から直接聞いたと語っている。
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