死後の評価と後世の楊貴妃像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 17:36 UTC 版)
「楊貴妃」の記事における「死後の評価と後世の楊貴妃像」の解説
『旧唐書』『新唐書』ともに伝に評はなく、玄宗を通した間接的なものしかない。また、楊貴妃の生前においては、同じ唐代の武則天にみられたような直接的な痛烈な批判は存在しない。李白が「清平調詞」「宮中行楽詞」において、楊貴妃を趙飛燕に例えたことは、どのような寓意か定かではない。 しかし楊貴妃死後、同時代の杜甫が「哀江頭」では楊貴妃の死を悼みながらも、「北征」では褒姒・妲己にたとえて強く批判している。また、白居易や陳鴻も楊貴妃を国を傾けた「尤物」(美女をあらわすが、男を惑わし道を誤らせる存在という意味合いが強い)と評している。これが、当時の士大夫の一般的評価と推測されるが、同時に『長恨歌』によって、美女伝説も生まれていたと見られる。 『長恨歌』の後に書かれた唐代の小説『周秦行記』では、主人公の牛僧孺を出迎える幽霊の一人として登場し、その美貌を称えられながらも、玄宗を「三郎」と呼び、「何度も華清宮に赴く」という批判を加え、代宗の皇后である沈氏を「沈婆」と呼ぶなど気性の激しい女性と描かれている。 楊貴妃自身の実像がはっきりしないことが潤色が加えられる要因と考えられ、また楊貴妃の死後、唐王朝はその勢いを取り戻すことがなかったため、盛唐の時代を象徴する存在である意味合いが強いとされる。 その後、宋代に正史、『開元天宝遺事』『明皇雑録』『唐国史補』『長恨歌伝』『酉陽雑俎』『譚賓録』『開元住信記』などをもとに編纂した『楊太真外伝』にと楊貴妃説話がまとめられ、さまざまな文学によって取り上げられ、清の『長生殿』の成立へとつながり、清代の戯曲を代表する作品となっている。その中では「傾国」の悪女と美女双方の側面を持つ楊貴妃像が描かれている。 後世において、民間で神格化されて牡丹の花神として祀られる。 現代では、楊貴妃自身は政治にあまり介入しておらず、土木工事など大規模な贅沢、他の后妃への迫害などほとんどなく、玄宗や楊国忠ら一族との連帯責任以外はあまり問えないと評されることが多い。
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