死後の遺産相続戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 20:45 UTC 版)
「ジョン・ファストルフ」の記事における「死後の遺産相続戦」の解説
死後、遺産はパストンと他の執行人達が争いだして、オックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアー、ノーフォーク公ジョン・モウブレーらが介入して複雑化、パストンの死後も争いが長引き、1469年にはカイスター城をノーフォーク公の軍勢に奪われる事態にまで陥った。1470年にウィンチェスター司教ウィリアム・ウェインフリート(英語版)の仲介でノーフォークのファストルフの領地をパストンの同名の息子ジョン・パストン(英語版)がいくつか相続することで決着がつき、カイスター城もパストンへ返還された。 ファストルフの晩年の関心は文化事業に向けられ、カイスター城内に宗教施設としてカレッジ設立を構想していたが、ファストルフの生前に完成せず、パストン家も遺産相続争いに忙殺され建築に取り掛かれなかった。1464年に設立許可が下りたが事業は難航する中、ウェインフリートがオックスフォード大学にカレッジを設立してはどうかと計画変更を持ち掛けた。この提案が遺産争いの終結と共に実現したが、規模は縮小されウェインフリートが1458年に建てていたモードリン・カレッジの内部に設置されることとなった。 晩年はカイスター城の拡張に意を注いだファストルフだったが、カイスター城は廃墟となり現在は塔だけが残っている。セント・ベネット修道院も同様でファストルフの墓も消滅した。建築物は荒廃したが、ファストルフが仕えたパストン家が家族・使用人・友人などに宛てた沢山の手紙・文書がパストン家書簡(英語版)として纏められ1787年に出版、幾度が紛失したがほとんどを大英博物館が入手、残りも20世紀に学者が編集・出版して現在まで保管されている。書簡にはファストルフの行動および遺産に関する経緯なども書かれ、当時の社会状況・生活と共に詳細に書かれている。また、使用人ウィリアム・ウスターが書いたファストルフの伝記は失われたが、パストン家書簡と同じく文書を取り纏めた『旅程』という現存する本によりファストルフの経歴が要約して伝えられている。
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