1469年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/01 15:31 UTC 版)
千年紀: | 2千年紀 |
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世紀: | 14世紀 - 15世紀 - 16世紀 |
十年紀: | 1440年代 1450年代 1460年代 1470年代 1480年代 |
年: | 1466年 1467年 1468年 1469年 1470年 1471年 1472年 |
1469年(1469 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
他の紀年法
カレンダー
できごと
- 6月8日(応仁3年4月28日) - 日本、改元して文明元年
- 7月26日 - 薔薇戦争におけるエッジコート・ムーアの戦い
- 10月19日 - アラゴン王太子:フェルナンドとカスティーリャ王女:イサベルが結婚
誕生
- 4月15日 - グル・ナーナク、シク教の教祖(+ 1539年)
- 4月29日 - ヴィルヘルム2世、ヘッセン方伯(+ 1509年)
- 5月3日 - ニッコロ・マキャヴェッリ、イタリアのルネサンス期の思想家、フィレンツェ共和国の外交官(+ 1527年)
- 5月31日 - マヌエル1世、ポルトガル王(+ 1521年)
- 6月20日 - ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ、ミラノ公(+ 1494年)
- 7月13日 (文明元年6月5日) - 存牛、戦国時代の浄土宗の僧 (+ 1550年)
- 8月26日 - フェルディナンド2世、ナポリ王(+ 1496年)
- フアン・デル・エンシーナ、スペインのルネサンス期の作曲家、詩人、劇作家(+ 1533年)
- 三条実香、戦国時代の公卿(+ 1559年)
- 長尾景長、戦国時代の武将(+ 1528年)
- 畠山義豊、戦国時代の守護大名、戦国大名(+ 1499年)
- フアン3世、ナバラ王、アルブレ伯(+ 1516年)
- ジョン・フィッシャー、イングランドの聖職者、カトリック教会、聖公会の聖人(+ 1535年)
- 明宗、戦国時代の浄土真宗の僧(+ 1540年)
死去
- 1月18日(応仁2年12月6日) - 少弐教頼、室町時代の守護大名、少弐氏の第14代当主(* 1426年?)
- 2月19日(応仁3年1月8日) - 伊達持宗、室町時代の守護大名、伊達氏の第11代当主(* 1393年)
- 3月1日(応仁3年1月18日) - 大森頼春、室町時代の武将(* 生年不詳)
- 6月1日(応仁3年4月21日) - 快元、室町時代の臨済宗の僧(* 生年不詳)
- 9月16日(文明元年8月11日) - 季瓊真蘂、室町時代の臨済宗の僧(* 1401年)
- 10月6日(文明元年9月1日) - 長尾頼景、室町時代の守護代(* 1390年/1400年)
- 10月8日 - フィリッポ・リッピ、イタリアのルネサンス期の画家(* 1406年)
- 11月20日(文明元年10月17日) - 一条政房、室町時代の公卿(* 1443年)
- 12月2日 - ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ、メディチ家の当主(* 1416年)
- 12月15日(文明元年11月12日) - 町藤光、室町時代の公卿(* 1390年)
- 12月31日(成化5年11月28日) - 睿宗、李氏朝鮮の第8代国王(* 1450年)
- アブー・サイード、ティムール朝の第7代君主(* 1424年)
- ベネデット・コトルリ、クロアチア出身の商人、人文主義者、科学者、アラゴン王国外交官、ナポリ王国裁判所裁判官(* 1416年)
- 尚徳王、琉球王国の第一尚氏王統の第7代国王(* 1441年)
- モクテスマ1世、テノチティトランの第5代トラトアニ、アステカ大王(* 1398年頃)
関連項目
1469年
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「ロシア・カザン戦争 (1467年-1469年)」の記事における「1469年」の解説
1469年にロシア人は新たなるカザン攻撃の準備をした。軍司令官コンスタンティン・アレクサンドロヴィチ・ベズズーブチェヴ率いる主力軍はニジニ・ノヴゴロドから船で下らなければならず、ダニール・ヴァシリエヴィチ・ヤロスラヴスク公率いる部隊はウスチュグを出立してヴャトカ及びカマ川沿いに1000km進出し、主力軍と一緒に同時にカザンに到着しなければならなかった。計画を遂行するためには1000ベルスタの区域にて部隊の行動と呼応することが要求された。これは成功しなかった。 ニジニ・ノヴゴロドを出立した部隊は遅れを取り、イヴァン3世はベズズーブチェヴに対して義勇兵をカザンに派遣するよう命令した。義勇兵はハン国の領域を荒らし回る必要があったが、カザンに接近することはなかった。けれども、この時、ニジニ・ノヴゴロドにいたほとんど全ての戦士が義勇兵であった。彼等は部隊として結集してイヴァン・ルノを軍司令官に選出して遠征に出た。命令があったにも係わらず、義勇軍は直接カザンに向い、モスクワの船団は3日間かけて5月21日の黎明に辿り着いた。攻撃は突然であった。ロシア軍は多くの捕虜を解放し、戦利品の獲得と城塞外を焼き払うことに成功し、その後、東のコロヴニッチに撤退して主力軍を待った。8日目に義勇軍のもとにロシア人捕虜がやって来て、タタール軍が義勇軍を攻撃するために大規模な戦力を整えていると通告した。ロシア人は戦闘の準備をして、全軍が軍司令官の指示を遵守していないにも係わらず、タタール軍を撃退することが出来た。戦闘後、義勇軍は川上に位置しているイルホフ島へ渡った。義勇軍の状況は危険であり、軍司令官ベズズーブチェヴは部隊とともにイヴァン・ルノのところに急いで救援に向かったが、合流した戦力は十分なものではなかった。両軍はカマ川から北方軍を待ち、ヴャトカの市民に自分達のところに兵力を送るよう手紙を送ったが、程なくして兵糧が尽き、他の部隊から何の知らせもなくて撤退を開始した。退却時にロシア軍は、モスクワから船でやって来たハンの妃、イブラヒムの母並びにカシムと会い、彼女達は和平が結ばれたことを述べた。情報は嘘であった。7月23日の月曜日、ロシア軍は聖体礼儀を執り行うためにズヴェネチェ島に滞在していたが、この時、川と岸辺からタタール軍によって襲撃された。ロシア軍は交戦しつつニジニ・ノヴゴロドに退却することを余儀なくされた。 ダニール・ヴァシリエヴィチ・ヤロスラフスク公率いる北方軍は、この時、未だカマ川にいて進軍が遅れていた。北方軍は期待していたヴャトカの援軍を得ておらず、それ故、同軍は総勢約1000人程であった。その上、ヴャトカにてタタール軍の代表団はカザンにおけるロシア軍部隊の構成並びに行動に関するあらゆる情報を告げた。道中、ロシア軍は和平に関する偽情報を受け取り、それが警戒心を鈍らせた。1469年7月4日、ヴォルガのカマ川の河口にて勢力が優勢なタタール軍と邂逅した。タタール軍は、ヴォルガ川を連結した船で渡河していたロシア軍の船団の行く手を遮った。ロシア軍は突破した。激戦の中、ロシア軍は430人を失った。主な軍司令官が戦死した。ヴァシーリー・ウフトムスキーが戦闘で殊勲を立てた。年代記が物語るところによると、ウフトムスキーは「船や長棒を駆使して大いに戦った」。軍司令官の没後にウトムスキーは指揮を執り、ロシア軍部隊はニジニ・ノヴゴロドまで突破した。同都市に到着すると戦士達は2度に渡って褒賞金を授けられ、その後、部隊はチェートベルチの小麦、муки、300プードの油、300個の玉葱、6000本の矢、300枚の羊の毛皮、300枚の外国のラシャで作った上着並びに300枚の上衣を授けられた。 9月1日にロシア軍は再度、カザンに接近した。同軍はイヴァン3世の弟達であるユーリーとアンドレイが指揮を執っていた。カザンは包囲され、城外から打って出たタタール軍は撃退された。程なくしてロシア軍はカザン都市民の水路を断った。タタール人達は交渉に踏み切った。「大公の要求に応じて」和平が結ばれた。和平の中に含まれているこの要求については分かっておらず、唯一、ロシア人捕虜並びに奴隷が引き渡されたことが知られているのみである。 締結された和平の多くは大オルダによる襲撃からの脅威、並びに目前に差し控えたノヴゴロド共和国との戦いのため、枷を解くための必要性に関連した物であった。
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