ポルトガル王国とは? わかりやすく解説

ポルトガル王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/01 00:05 UTC 版)

ポルトガル王国
Regnum Portugalliae (ラテン語)
Reino de Portugal (ポルトガル語)


1139年 - 1910年

国旗(1830年 - 1910年) 国章(1640年 - 1910年)
国歌: Hymno Patriótico(ポルトガル語)
愛国讃歌(1809年 - 1834年)

Hino da Carta(ポルトガル語)
イーノ・ダ・カルタ(1834年 - 1910年)

ポルトガル王国の地図(1800年)
公用語 ポルトガル語
ラテン語
宗教 カトリック
イスラム教
首都 コインブラ
(1139年 - 1255年)

リスボン
(1255年 - 1808年)

リオ・デ・ジャネイロ
(1808年 - 1821年)

リスボン
(1821年 - 1910年)
国王
1139年 - 1383年 ボルゴーニャ王朝
1139年7月25日 - 1185年12月6日 アフォンソ1世
1385年 - 1580年 アヴィス家
1385年4月6日 - 1433年8月14日 ジョアン1世
1495年10月25日 - 1521年12月13日 マヌエル1世
1581年 - 1621年 ハプスブルク家
1581年3月25日 - 1598年9月13日 フィリペ1世
1640年 - 1910年 ブラガンサ家
1640年12月11日 - 1656年11月6日 ジョアン4世
1908年2月1日 - 1910年10月4日 マヌエル2世
首相
1834年9月24日 - 1835年5月4日 ペドロ・デ・ソウザ・ホルステイン
1910年6月26日 - 1910年10月5日 アントニオ・テイシェイラ・デ・ソウザ英語版
面積
1300年 90,000km²
人口
1300年 800,000人
変遷
オーリッケの戦い 1139年7月25日
スペインに編入 1580年8月25日
独立の回復 1640年12月1日
革命で共和制へ 1910年10月5日
通貨 ポルトガル・ディニェイロ
(1139年 - 1433年)

ポルトガル・レアル
(1433年 - 1910年)
ポルトガルの歴史

この記事はシリーズの一部です。
先史時代英語版

ポルトガル ポータル

ポルトガル王国(ポルトガルおうこく、ラテン語: Regnum Portugalliae, ポルトガル語: Reino de Portugal)は、イベリア半島西部、現在のポルトガルにあたる地域(当初はその一部)に1139年から1910年まで存在した王国である。[1]1415年から1580年まではポルトガル・アルガルヴェ王国英語版、1815年から1821年まではポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国としても知られている。[2]また、海外植民地を含めたポルトガル帝国を指すこともある。[1]

概要

1129年ポルトゥカーレ伯アフォンソ1世がポルトゥカーレ公を名乗りカスティーリャ王国より独立、1139年より王を称した。国土回復運動(レコンキスタ)によって勢力を拡大した。1242年サンシュ2世アルガルヴェ地方を征服してアルガルヴェ王国を建国し、それ以降のポルトガル王はアルガルヴェ王を兼ねるようになった。1383年、フェルナンド1世が嗣子なく没すると、フェルナンド1世の娘でカスティーリャ王国の王妃であったベアトリスが王位を請求し、フェルナンド1世の庶弟であるジョアンと争った。ジョアンはカスティーリャ王国軍を退け、ジョアン1世として即位した(アヴィス朝)。

大航海時代においてスペイン王国とともに活躍し、アフリカアジア南米に広大な植民地を領有した(ポルトガル海上帝国)。エンリケ王子が死去する1460年までに、ポルトガルは遠洋航海に耐える船を改良してヨーロッパ最先端の海洋開発国に成長した。ジョアン2世(在位:1455年~95年)の治世下の1488年には、バルトロメウ・ディアス喜望峰迂回に成功し、胡椒の地インドへの道が開けた[3]。1580年、エンリケ1世が嗣子なく死去すると、スペイン王フェリペ2世がリスボンを占拠し、ポルトガル王に即位した。ポルトガルはスペインに併合こそされなかったものの、1581年から1640年の期間、スペイン王がポルトガル王を兼ねる同君連合の状態にあった(イベリア連合)。しかしスペインに対するポルトガル貴族の反発は根強く、1640年のポルトガル王政復古戦争によって同君連合は解消され、アヴィス朝の分家であるブラガンサ家ジョアン4世が新たな王となった。

1801年、ナポレオン率いるフランスは、ポルトガルに対し大規模な領土割譲とイギリス商船の締め出しを要求。ポルトガルが拒否したことから同年4月に戦争が始まり、フランス軍はポルトガルに侵入してポルトガル軍を打ち破った(フランス側で参戦したスペインが命名するところのオレンジ戦争)。同年6月、イギリス商船の締め出し、領土割譲(現在のギアナ)と戦争賠償金の支払いなどを内容とするバダホス条約に調印して終戦となった[4]。 1808年には一連のナポレオン戦争から逃れ、最大の植民地ブラジルに宮廷を移した(ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国)。1821年に宮廷は本国に復帰したが、ブラジル帝国独立を許すこととなった。1828年には王位継承をめぐってポルトガル内戦が勃発し、1834年まで続いた。以降も内政の混乱が続いて共和主義者が台頭し、1910年の共和政革命によって王国は消滅した。

歴代王朝

名前 期間
1 ボルゴーニャ朝 1139年1143年) - 1385年1383年
2 アヴィス朝 1385年 - 1580年1583年
3 アブスブルゴ(ハプスブルク)朝 1581年 - 1640年
4 ブラガンサ朝 1641年 - 1910年

参考文献

  • 金七紀男「図説ブラジルの歴史」、2014年10月24日、河出書房新社[3]

脚注

  1. ^ a b Disney, A. R. (2009-04-13). A History of Portugal and the Portuguese Empire. Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-40908-7. http://dx.doi.org/10.1017/cbo9780511813337 
  2. ^ Chaves, Cláudia Maria das Graças (2006-06). “O outro lado do Império: as disputas mercantis e os conflitos de jurisdição no Império Luso-Brasileiro”. Topoi (Rio de Janeiro) 7 (12): 147–177. doi:10.1590/2237-101X012004005. ISSN 2237-101X. http://www.scielo.br/scielo.php?script=sci_arttext&pid=S2237-101X2006000100147&lng=pt&tlng=pt. 
  3. ^ a b 図説ブラジルの歴史. 河出書房新社. (2014年10月30日) 
  4. ^ ジョージ・C・コーン(著)、鈴木主税(訳)、浅岡政子(訳)『世界戦争事典 改訂第2版』河出書房新社、2014年9月29日、142,143頁。 ISBN 978-4-309-22614-9 

関連項目


ポルトガル王国

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王配」の記事における「ポルトガル王国」の解説

ペドロ3世 女王マリア1世王配マリアの父ジョゼ1世の弟で自身王位継承権有したジョアン6世の父。“Rei Consorte”の称号上記1)。 ロイヒテンベルク公アウグスト 女王マリア2世最初王配。父はフランス皇帝ナポレオン1世養子ウジェーヌ・ド・ボアルネ。子はなし。“Príncipe Consorte”の称号上記2)。 フェルナンド2世 女王マリア2世2番目の王配ザクセン=コーブルク=コハーリ家出身ペドロ5世ルイス1世の父。“Rei Consorte”の称号上記1)。

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