ガリシア=ポルトガル王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 06:32 UTC 版)
「ガリシア王国」の記事における「ガリシア=ポルトガル王国」の解説
1063年、フェルナンド1世はカスティーリャ王国を息子たちに分割した。ガリシアは三男のガルシアへ割り当てられた。カスティーリャ王フェルナンド1世の死により、1065年にポルトガルの領邦が独立を宣言し、ガリシア=ポルトガル王国を形成した。ポルトゥカーレ伯(ドウロ川北部を治めていた)であるヌーノ2世メンデスは、最終的に友好関係を断とうと、フェルナンド1世の息子たちの間で起きた内戦によって生じた国内の緊張につけ込んだ。彼は自身がカスティーリャ王家に属さない独立したガリシア王であると宣言した。しかし、1071年、ガルシア王はヌーノを打ち破り、ペドロソの戦いで戦死に追い込んだ。ヌーノ2世の領土とポルトガル王の称号はガルシア2世のものとなった。 1072年、ガルシア2世は長兄であるカスティーリャ王サンチョ2世によって攻められ、逃亡した。同じ年、サンチョが暗殺された後、実弟のアルフォンソ6世がカスティーリャ=レオン王に即位した。アルフォンソはガルシア2世を生涯幽閉し、自身が実父フェルナンド1世の領土を再統合し、ガリシア=ポルトガル王を宣言した。この時から、自治権を持つ違った体制を持ちながらもガリシアはカスティーリャ=レオン王国の一部に残った。長くは存続しなかったが、このガリシア王国は、ポルトゥカーレ伯エンリケ・デ・ボルゴーニャの元で盛り上がった未来のポルトガル民族運動のための布石となった。ガリシア王国はアルフォンソ6世によって併合された。アルフォンソの娘でエンリケ・デ・ボルゴーニャの妻テレサは、1111年に自分の息子アフォンソ(のちのアフォンソ1世)へガリシアを与えた。
※この「ガリシア=ポルトガル王国」の解説は、「ガリシア王国」の解説の一部です。
「ガリシア=ポルトガル王国」を含む「ガリシア王国」の記事については、「ガリシア王国」の概要を参照ください。
- ガリシア=ポルトガル王国のページへのリンク